三十二話 叶わぬ夢
我は黒竜の契約者にして汝らを導くもの。
我を語るなかれ。
我を記すなかれ。
我を象るなかれ。
――「黒竜教会戒律集」より抜粋
シルニアを脱出してから丸一日。
クラウネル、ヒルダ、レオンティナ、プレシアの四人がエティナ火山へ向かうのを見届けたアンヘリカは、あえてそのままシルニア周辺に留まっていた。
クラウネル一行がいない今、シルニアにはアンヘリカを止められる人間はいない。上手く再潜入を図り、城兵全員を屍兵化した上でクラウネルと対決する算段だった。アンヘリカ自身の手で仕留める必要があるのが手間と言えば手間だが、要するに狩りの要領なのだ。逃げ場のない地下かどこかへ追い込んで、屍兵を使って一人ずつ動きを止めればいい。
さて、どこから潜入するか。
最初の何人かを屍兵化するまでは気付かれずに行きたいところ。
そんなことを考えながら城壁の様子を探っていると、動きがあった。
北側の大城門がわずかに開き、伝令らしき騎兵がそこから走り出たのだ。そのまま脇目も振らず、エティナ火山方面を目指して馬に鞭をくれるのが見て取れた。
少し、気になった。
疑問は大きく二つだ。一つは、ロムルス、カルティア両国の動きがまだ見えない中で、一体何の伝令なのか。もう一つは、なぜ伝令の兵が全身に傷を負っているのかということだ。
馬の動きを目で追う。
怪我のせいか、速度はそれほど出ていない。
まだ追い付ける範囲だった。
確かめる価値はある。
そう思えた。
息を止め、駆ける。
短時間ならば、馬よりも早く駆けることがアンヘリカにはできた。
しきりに後方を気にする様子を見せていた伝令は彼女の姿に気付くが、その時にはもう間合いに捉えていた。剣を抜く暇は与えない。飛び上がって組み付き、馬上から引きずり落とす。
「ぐっ、貴様、貴族どもの手の者か!」じたばたと足掻く兵の腕を折り、大人しくさせる。「あっ……がっ、ぐううっ……へ、陛下を唆し、クーデターを起こしたのは貴様たちなのだろう!? 汚い手を使いおって……殺せ! 早く殺せ!」
伝令は、すぐには理解が及ばない台詞を吐いた。
アンヘリカがカルティアの手の者であることは知られていてもおかしくないが、その後に続けた貴族や陛下、クーデターといった単語が何を指しているのかが分からない。
「……まあ、いいでしょう。体に聞けば分かることです」
街道上ではさすがに目立つ。馬に載せてどこかへ運ぶために彼の身体を持ち上げると、後方から複数の蹄の音が聞こえてきた。
振り返ると、十騎ほどの兵士が大城門からこちらへ馬を駆けさせているところだった。見たところ、何者かに襲われる味方の伝令兵の救出という雰囲気ではない。であれば、彼らは伝令兵を追っているのだ。なるほど、彼らが伝令のいう貴族側の兵なのだろう。
「大人しく待っていて下さいね」
兵の身体を無造作に地面に落とし、膝裏を踵で踏み抜く。骨が折れ肉を突き破る濁った音。これなら、仮に逃げたとしても遠くへは行けないだろう。話を聞く前に殺されてしまっては面白くないので、少しだけ離れて兵たちが近寄ってくるのを待った。
兵たちは取り回しやすい短槍を手に、騎乗したままアンヘリカを包囲する。
「あそこの脱走兵の動きを止めたのは貴様か? よくやったな。……ほらよ」
兜に羽根飾りを付けた隊長らしき男が、指で金貨を弾いてよこす。
金貨は、そのまま街道に落ちて澄んだ音を立てる。
「それを拾ってここを去れ。一切は他言無用だ。さもなくば……」
槍を掲げてにやりと笑って見せる。
「俺の槍が貴様を貫くことになる」
馬の御し方、視線の動きだけでも実力は測れる。全員、大したことはない。屍兵化するならできるだけ四肢を損ねない方がいいので、それだけ気を付ければいいだろう。
「…………」
全員を逃がさずに仕留めるためには相手から仕掛けさせた方がいい。黙って身構えていると、何かに気付いた様子で兵士の一人が声を上げた。
「……あっ! 隊長、この女、例のカルティア女ですよ!」
「おい、あの衛兵長を倒したっていう、あれか?」
「なに? いや、確かにどこかで見た覚えがあるな……よ、よし、ここで仕留めるぞ! 恐れるな、十対一だ! 囲め囲め! こいつを殺せば報奨金が出るぞ!」
隊長の男は乗馬に拍車をかけて突っ込んできた。
腕は大したことなくとも、自ら先陣を切ったことは評価できる。
ぎりぎりまで引き付け、突き下ろされた短槍を半身になってかわすと共に、両手でつかむ。その場でぐっと踏ん張ると、落馬した男は地面に身体を叩き付けた。鐙も知らない野蛮人は、地を這うのがふさわしいのだ。
「こいつ!」
「全員でかかるぞ!」
残りの兵たちも、口々に叫び声を上げながら突きかかってくる。
だが、その動きは散漫で、統一された意志が通っていない。
石突で馬上から突き落とし、馬の足を払い、槍を掴んで引きずり落とす。
十人と十頭を屍兵化するのに、五分もかからなかっただろう。
アンヘリカの命令にのみ忠実に従う物言わぬ兵となった彼らが、恐怖の叫び声を上げる伝令兵の手足を掴んで森の中へと引きずっていく。アンヘリカ自身は、伝令兵が残した生きた馬を駆ってそれに続く。濃密な死の匂いに怯えていた彼女は、新たな乗り手たるアンヘリカに首筋を撫でられると落ち着きを取り戻していた。
屍兵たちに守られ、アンヘリカは森の中を進む。
彼らの動きに迷いはなく、全ては彼女の意志の下に統率されている。
そこには、単純な美しさがある。
誰もが、死体を操る術など呪われたものだとして忌み嫌う。だがそれは、戦っているときの彼らしか見たことがないからだとアンヘリカは思う。戦っていない時の彼らは、賭け事もしなければ女遊びもしない。無駄口も叩かなければ、何かに悩まされることもない。彼らの在りようは、生きているときよりもずっと純粋で綺麗な印象を彼女に与える。
適当なところで隊列を止める。伝令を地面に寝かせ、屍兵たちに手足を固定させる。手足を締め付ける万力のような力と骨折の痛みで、伝令は身動き一つとれずにうめいていた。
「お互いのために、一つ忠告をして差し上げましょう。これから私は、貴方を拷問します。貴方の知っていることを洗いざらい話すまで、ずっとです。抵抗しても、ただ苦痛が長引くだけであることを心得なさい」
「…………殺せ」
吐き捨てるように言ったその口に、無理やり木の枝を噛ませる。
屍兵の一人から短剣を受け取ると、鞘を抜き捨てた。
よく研がれた刃先を伝令の頬に押し当てる。ぷつりと血の球が浮いた。
彼の右腕を伸ばさせ、手を広げた状態で固定する。
親指から小指まで、五本。
順番に爪を剥いだ。
森の中に、くぐもった絶叫が響き渡る。
「私の問いに答えるまで、十五回聞きます。意味は分かりますね?」
結局、全部の爪を剥ぎ終え、指の関節を一つずつ斬り落とす段になって、彼は落ちた。
「クラウネルに何を伝えようとしたのですか?」
「き、貴族たちが陛下と組んで、反乱を起こしやがったんだ。……とにかくあっという間に、城の中も外も掌握されちまった。クラウネル派を統率できる人間がいなくて、ばらばらのままでやられちまったんだよ。クラウディオ閣下と宰相が倒れ、クラウネル様が王都を離れた隙を、上手く衝かれたんだ。俺は、一刻も早く城に戻るように伝えに行くところだったんだ」
「他に情報は? なにか大義名分がなければ、反乱がそんなに上手くいくはずはない」
「……奴ら、年端もいかない幼子を担ぎ出して、クラウネル様は陛下と血の繋がっていない私生児なんだ、だからカルティアと組んで王国を我が物にしようと策略を巡らしていたんだ、このお方こそがエシリア王家の血を引く正統な後継者なんだってぶちあげてやがった。くそっ、んなことやっている場合なのかよ!」
「…………」
クラウネルが現国王と血の繋がらない私生児、つまり今は亡き王妃と間男の子供だという話が真実であるという話は、確かにもっともらしくはある。人質めいた形でカルティアによこされ、あげくに竜騎士の契約によって男性機能を失わせるのが、継承順第一位のクラウネルであるというのは人選として疑問だったのだ。それが、血の繋がらない子供を疎ましく思い、あわよくば死んでもらいたいと考えた国王の差し金なのだとすれば、筋は通る。
もとより、確かめようのないことだ。
だが、上手く使えばあのやわな王子の動揺を誘えることは間違いない。
隙は一瞬で十分だ。
彼さえ屍兵化してしまえば、アンヘリカの能力と屍兵たちを併せて残りを仕留めることは、さほど難しくない。彼らもまた屍兵化することに成功できれば、なお良い。物忌師が龍脈を切り、赤竜が弱っている今ならば、討伐も不可能ではない。いや、それ以上を狙うことも。
そこまで考えて、アンヘリカは首を振る。
今はまだ、考えても仕方のないことだ。
そう、古の黒竜教会開祖の伝承に基づき、赤竜との契約を結ぶなどということを本当に可能にするためには、まず目の前の戦いを生き延びなければならないのだから。