三十話 決別
奉仕せよ。
順守せよ。
疑問を持つなかれ。
――「黒竜教会戒律集」より抜粋
王の塔。
その最上階。
アンヘリカは静かに息を整え、扉を叩いた。
「入れ」
クラウネルの返事はすぐに帰ってきた。
まるで、アンヘリカが彼の執務室を訪れるのを待ち受けていたかのように。
アンヘリカが扉を押し開けると、じっとこちらを見据える視線が彼女を出迎える。自らの正しさを疑ってもみない、どこまでも真っ直ぐな眼差しに少しだけ息苦しさを覚えた。そのすぐ側には、宰相のエンリノの姿。
「衛兵も含め、全ての人間を下がらせた。ここにいるのは僕らだけだ」
アンヘリカが周囲に走らせた視線を読み取り、クラウネルが言う。事実、執務室にはクラウネルとエンリノ以外の姿はなく、どこかに隠れているような気配もない。
「……私をお呼びでしたか?」
「うむ……それなのだがな」
言いよどむクラウネル。彼はエンリノへ目をやった。
「貴公には謀反の疑いがかかっているのだよ、アンヘリカ殿」
やはり、と思った。
昨夜、プレシアとレオンティナの主従と、ロムルスの竜騎士ヒルダの三人がシルニアへ帰還した。プレシアは左目を失う大怪我を負って意識不明、レオンティナは主の看病をするのだと言ってすぐに退いてしまった。残されたヒルダの報告によれば、一行はガラニア、グリジェニアと順調に龍脈を切ることに成功したものの、セルニアで竜騎士に襲われたのだと言う。
その際には、物忌師フィルシィが行方不明になってもいる。
一行は隠密であり、街中での行動からその目的がばれたとは考えにくい。となれば、内通を疑うのは自然。アンヘリカは物忌師に対して好ましいとは言いがたい態度を取り続けてきた上に、襲ってきたのがカルティアの竜騎士だとなれば、アンヘリカが疑われるのも道理だった。
実際、その疑念は正しい。アンヘリカはこれまでずっと、隙を見ては間諜と接触を図り、本国へ情報を流してきた。プレシア一行の襲撃はアンヘリカ自身が要請したものではないが、アンヘリカの立場が怪しくなることと引き換えにしても実行すべきだとの判断が下ったのなら、彼女にそれを否定する権限はなかった。許可もなく任を離れることも、同じく自分の判断ではできない。
半ば予想できていた事態とはいえ、アンヘリカにこれを回避する術はなかったのだ。
ここまでか。
「…………」
間合いをうかがう。
エンリノは武術の心得があるようには見えないが、クラウネルは曲がりなりにも竜騎士だ。これまでの戦いで、それなりに実戦の経験を積んでもいる。だが、戦えば自分が勝つ確信がアンヘリカにはあった。実戦経験の質量ともに、文字通り桁が違う。長じてから実戦に参加した者と、幼いころから常に生きるか死ぬかの瀬戸際にいた自分。人としての在りようが、そもそも異なるのだ。
「エンリノはこう言っているが、僕は君を疑ってはいない。君は竜の討伐に当たっての大事な戦力であり、それ以前にここまで旅を共にした仲間だと僕は思っている。……頼む。内通などしていないと、そう言ってくれないか」
クラウネルの声は、どことなく哀訴する幼子を思わせた。
それは、自分でも自分を信じ切れずにいる証。
心のどこかで、事実を認めている印。
思考は冷え切っていく。
身体は熱い。
茶番は終わり。
さあ、闘争の時間だ。
この場合、助けを呼ばれるのが一番いただけない。
何かを察したのか、声を上げようとしたエンリノの懐に滑り込む。
塔の入り口で武器を預かられているが、それは何ら障害とならない。
みぞおちに掌打を叩き込む。
苦しげに息が吐かれた。
彼が声を出すには、まず息を吸わなければならない。
だが、彼を仕留めるにはその一瞬で足りる。
腰に差された短剣を抜き取り、飛びすさる間際に素早く振るう。
首筋にぱくりと開いた傷口から血が迸り、クラウネルの横顔を赤く染めた。
エンリノは目を見開いたまま腰の長剣を抜こうと試み、そのまま後ろに倒れる。
「エンリノッ! くっ……」
クラウネルは椅子を蹴って立ち上がると愛剣〈フラーマ〉を抜き放つ。
赤く光る刀身が、彼の戸惑いと怒りを映して黒き炎をまとう。
机越しに、睨み合う。短剣一本では、少々荷が重いか。
「なぜだ、アンヘリカ! なぜ僕を裏切るのだ!」
アンヘリカは答えない。
「君はその裏切りによって、君自身の信念を汚しているのだぞ!」
言葉は、その意味は理解できても、彼女の感情を揺り動かすには至らない。
最早、そのような段階ではないと言うのに、この男はどこまでも甘い。
その甘さが、彼女は。
大嫌いだった。
アンヘリカは大きく息を吸い込み、叫んだ。
「敵襲! エンリノ様がやられたぞ! クラウネル様をお守りしろ!」
クラウネルが目を丸くし、一瞬だけ身体を硬直させる。
踏み込みたい誘惑にかられるが、思い留まる。
勝負を急ぐ必要は全くないのだ。
時間は、むしろ彼女に味方する。
その声に応え、ばらばらと塔を駆け上る足音が聞こえてくる。
「どういうつもりだ。言い逃れはできんぞ」
「それは貴方の方なのでは?」
「……何を言っている?」
「エンリノが死んだのは、貴方のせいです」
「世迷言を……狂ったか」
訝しむような表情。
当然だろう。
アンヘリカの言葉には、何の意味もない。適当な言葉を並べているだけだ。
彼は、敵と会話している暇があるのなら、こちらへ飛び込むべきだった。
だが、遅い。
高い塔を駆け上がり、騎士たちが息を切らせながら姿を現す。
彼らはアンヘリカの声を聞いてここへ来ている。
当然、まさか彼女こそが敵であるなどとは思いもよらない。
一方のクラウネルは、味方が来たという安心感を得ている。
そういう人間は、無理をして敵の懐深くに飛び込むことはしないものだ。
不用意に部屋へ踏み込んだ騎士の面頬を跳ね上げ、そこへ短剣を叩き込む。
深々と突き刺さった短剣は、彼の脳髄をえぐり、即座に絶命させる。
短剣を抜くと、重さに従って面頬が落ちる。
血は全て兜の中で流れ、一瞬では彼が死んでいることを判別できない。
だらりと力の抜けた身体を受け止め、後ろへ押しやる。
二人目の騎士が、急に後ろへ倒れてきた先頭の騎士をとっさに受け止めた。
アンヘリカはその脇を抜ける。
騎士たちは、先頭の者が止まったので階段で詰まっていた。
一番上の段にいた三人目。
室内だというのに巨大な斧槍を担いだその身体に、短剣を閃かせて体当たりする。
刃物に動揺してバランスを崩した全身鎧は、急勾配の階段状で単なる鉄塊と化す。
完全装備の十人余りの騎士たちによる、肉と鋼鉄の雪崩。
王の警護役とは言え、これだけの人数が完全装備でいるところを見ると、おそらくは宰相のエンリノがアンヘリカの反逆に備えて手配したのだろう。残念ながら、それらの準備が仇となった形だ。全身を強く打ちつけながら十数段も落ちた騎士たちは、すぐには動けない。
アンヘリカは階段を駆け下り、一人ずつ止めを刺す。
面頬で視界が狭まってもいれば、何が起きたかを正確に把握できた者は一人もいなかったことだろう。刺突しながら数を数えた。全部で十一。執務室に残してきた騎士とエンリノも合わせれば、十三の死体が生み出されたことになる。
後ろをちらりと見る。
クラウネルはまだ追ってきていない。
静かに目を閉じ、素早く精神統一を図る。
言葉は、意識することなく流れ出た。
「汝らの魂は偉大なる黒竜に捧げられ、操り手たる魂を失いし汝らの肉体はこのアンヘリカが貰い受けた。……黒竜の使徒たる竜司祭アンヘリカの御名において命ずる。起て。そして我が命に服すがよい。今や汝らの肉体を支配するは失われた汝らの魂に非ず。其は支配を司る黒竜の黒き炎なり!」
神聖な黒き炎が騎士たちを包む。
そして、彼らは再び起つ。
生命なき人形として。
黒竜のしもべとして。
竜司祭アンヘリカの命に忠実に従う、屍兵として。
アンヘリカは次々に立ち上がった彼らに道を譲る。
「行け。そして殺せ」
神託に打たれた信徒のごとき勢いで、彼らは階段を駆け上がった。
その身体能力は、竜司祭たるアンヘリカの〈鼓舞〉の能力により強化されている。
竜司祭がその手で殺めた者を支配下に置く〈屍兵生成術〉と配下にある者の士気と身体能力を一時的に向上させる〈鼓舞〉の秘術は、竜司祭の中でもその資質を見出された一部の者にしか伝授されず、さらにそれを戦闘に耐えうる水準で行使するには天与の才能が必要とされる。アンヘリカは、そのどちらをも高い水準で備えている数少ない竜司祭の一人だ。
もしもの時には、単騎でクラウネルを暗殺し、赤竜の討伐を成し得る人材。
アンヘリカは、その条件に最も適合するのは自分だと自負している。
クラウネルは、ここで仕留める。
そう、それができるのは自分以外にいないのだ。
彼を仕留めた後は、彼を屍兵と化し、赤竜の下へ向かえばいい。
物忌師の怪しげな術とは異なり、屍兵化した者は戦闘能力を増す代わりに人間としての感情や言語を失ってしまうので、もはやクラウネルを使ってレオンティナやヒルダの協力は得ることは適わないだろうが、なんとしてもアンヘリカだけでやり遂げるのだ。
十一人の屍兵に続いて、アンヘリカも階段を駆け上がる。
ただ一人残された生身の騎士は、未だ状況を把握できていない。
ただ異様な雰囲気をまといながら迫りくる屍兵たちに恐れをなし、硬直していた。
「う、うわっ! ぎゃああああっ!」
屍兵によって押し倒され、鎧兜を剥がれ、切り刻まれながら絶叫する。
騎士道も何もない。
屍兵は目の前に立ち塞がる者を、ただ殺す。
騎士の死を確認すると、跳ね上がるように立ち上がり、そのままクラウネルに殺到する。
アンヘリカは、クラウネルが構える〈フラーマ〉の刀身が暗赤色に光り輝くのを見た。
一閃。
先頭に立った一人は、鎧ごと袈裟懸けに叩き斬られ、そのまま床に崩れ落ちた。
凄まじい威力。
だが、それも織り込み済みだ。
二の太刀を振るう暇も与えず、五人がクラウネルにつかみかかる。
剣を握る腕を押さえ、身体で視界を塞ぐ。
屍兵だからこそできる、捨て身の戦術だ。
長剣を抜いた残りの五人がクラウネルを抑え込んだ仲間ごと刺し貫こうと、逆手に持った剣を振り上げた、その瞬間。
アンヘリカは前へ跳び、入れ替わるように五人の屍兵を後ろへ跳ばせた。
感じたのは、足元から這い登る寒気のような殺気だ。
扉から姿を現し、たちまち三人の屍兵を斬り捨てたのはヒルダとレオンティナだった。
「クラウネル様ッ!」
「尻尾を出しましたね、竜司祭。ここまでです」
彼女たちは、その間にも手近な二人を斬り倒し、クラウネルの救出に向かっている。
彼我の戦力差を測り、決断を下す。
万一に備えて動かさずにおいたエンリノの死体を屍兵化。
窓から飛び下ろさせ、アンヘリカもそれを追う。
落下。
エンリノの身体を引っ掴み、着地の瞬間にそれを蹴った。
そのまま転がって、勢いを殺す。
見上げれば、窓から見下ろすレオンティナの姿があった。
さすがに、アンヘリカを追って飛び降りる様子はない。
その眼は、どことなく事態を楽しんでいるようにも見えた。
屍兵は、ヒルダによって掃討されている気配が伝わってくる。
認めよう、この場は確かにアンヘリカの負けだ。
ぐちゃぐちゃに潰れたエンリノの身体を一瞥し、アンヘリカは身をひるがえした。




