二十九話 名誉
ただ名誉のために生きよ。
――カントゥルス・レムス「ロムルス人の警句」より抜粋
「……気付かれましたか、主殿?」
声は、レオンティナのものだ。
だが、彼女がどこにいるのか分からない。
目を開けようとするが、何かで押さえつけられている感触。
手足に触れる布の感触からすると、寝台に寝かせられているらしい。
身体が揺れているような感じ。
船上にいるのか。
ひどく、暗い。
「怪我を受けております。どうか、そのままお休み下さい」
怪我。
冗談でしょう。
レオンティナがいるのに、そんなはずがない。
第一、どこも痛くないではないか。
口に出そうとした言葉は、どれも声にならなかった。
「鎮痛薬の効果が出ていますから、今はお休み下さい。心配されなくとも、シルニアに着きましたらお知らせいたします」
どこか懐かしくすらある、ふわふわとした気分。
身体は、自分のものではないようで。
何かを考えるのも億劫だった。
意識が薄れるのが分かる。
だが、止められない。
止めたくもない。
痛い。
とても痛い。
顔の左半分に走るしくしくとした痛み。
「痛むでしょうが、我慢なさって下さい。薬の使い過ぎは、お体に障ります」
身体が上下左右に揺すられる。
揺れの度に痛みで気が遠くなる。
否、揺すられているのではない。
自分が船上にいることも思い出す。
船乗りたちの叫びが、甲板を叩く凶暴な雨音が、暴風に軋む船体の悲鳴が耳に入る。
気付けば、プレシアはレオンティナに抱きしめられていた。
腕ごと抱きすくめられているので、手は全く自由にならない。
とにかく、顔が痛い。
頭がぼうっとする。
熱でもあるのだろうか。
意識を保つのが難しい。
激しい揺れが続く。
ふっと体重が消える一瞬。
浮遊感に、意識を刈り取られた。
小鳥のさえずり声。
儚く漂う花の香り。
ぱちりと目が開く。
左目に痛みが走る。
顔を、何かで締め付けられている。
ゆっくりと手で触れてみた。
包帯。
柔らかく、そしてしっかりと巻かれている。
次に、体を起こしてみる。
左目を除いて、特に痛みを感じる部位はない。
左の方で、きぃ、と扉の軋む音。
続けて、かすかに息を飲むような気配が伝わってくる。
包帯で覆われているので、視界が狭い。
体を捻ってようやくそちらを向くと、気配の主はすでに走り去ってしまっていた。
部屋を見回す。
高価であることは分かるが、どこかまとまりなく感じられてしまう調度品の数々。ロムルスやカルティア、それに東方の意匠が混淆する様式は、エシリア島特有のものだ。よく見れば見覚えのある品々が散見される。以前、プレシアがあてがわれていた部屋に間違いなかった。ということは、自分はいつの間にかシルニアの王城に戻ってきているのか。
記憶は、セルニアで龍脈を切り、カルティアの竜騎士の襲撃を受けたところで途切れている。死を覚悟し、目をつぶったところまでは覚えているが、その後の記憶がない。
「お目覚めですか、主殿?」
落ち着き払った声は、レオンティナのものだ。
戸口に姿を現した彼女は、音もなく寝台に歩み寄ると、プレシアの額に手を当てた。
「熱も下がりましたな。もう、心配ないでしょう」
「レオンティナ……」
次第に記憶がよみがえってくる。
船の中で、彼女に看病されていたのだ。
いや、その前にも何かなかったか。
「……どれくらい、経ってる?」
「セルニアで竜騎士の襲撃を受けてから三日経っています。シルニアに着いたのは昨晩遅くでしたので、無理に起こし頂かない方がよいだろうと判断いたしました」
「何があったのか、説明して」
「御意に」
レオンティナは優雅に微笑むと、事の次第を語りはじめた。
カルティア竜騎士たちの足止めに残った彼女は、敵を倒してからプレシアの後を追ったのだという。そして竜騎士に襲われるプレシアを間一髪で救出し、ヒルダと協力しながらなんとか逃げおおせたのだと。
「そう……じゃあ、左目はもう駄目なのね?」
確認の言葉を口にする。
「神経が断ち切られています。回復の見込みはないかと」
「そう」
プレシアはその事実を受け入れる。
レオンティナは安易な慰めの言葉は口にしない。
彼女が駄目だと言うのなら、それはもう駄目なのだ。
竜騎士に襲われて命があるだけでも十分に幸運だったのだし、あれはレオンティナと離れた自分自身のミスだったという自覚がある。だからこそレオンティナは謝罪の言葉を口にしないのだし、プレシアにも彼女を責める気はさらさらなかった。
「なら、後で眼帯を用意してくれるかしら」
「御意に」
それで終わりだ。
未練を断ち切り。
頭を切り替える。
ようやく、霧が晴れるように少しずつ思考がはっきりしてくるのが感じられた。
「そう言えば、フィルシィはどうなったのかしら」
「……残念ながら、物忌師は見つかりませんでした」
「それについて、クラウネルはなんと?」
「彼は、主殿の帰還を喜んでおられました。物忌師に関しては、もう用済みだから構わない、と。気になったのは、竜司祭の反応です。彼女は、物忌師の逃亡と主殿の帰還を快く思っていない様子。くれぐれもお気を付け下さい」
「ティナがそう言うのなら、そうなのでしょうね。……そもそも、今回の襲撃自体があの女の差し金である可能性もある。赤竜による損失も顧みずに竜騎士を送りこんできたのは、カルティアがエシリア征服に本腰を入れた証拠とも取れるでしょうね」
「それ以外にも動きがございます。カルティア、ロムルス双方が大攻勢をかけるべく大船団を準備中です。未確認ですが、かなりの数の竜騎士が含まれるという情報も入っています。こちらの予想以上に動きが早い背景としては、赤竜による船舶の襲撃の減少という事情もあるようです。両国とも、原因までは掴めないながらも赤竜に何かあったのだと気付きだしておりましょう」
「龍脈を切った効果ね?」
「その通りかと。また、副次的な効果として不漁や疫病の兆候も見られます。この一週間というもの、クラウネルはそれらの対応に追われ、赤竜討伐隊は未だ出発できておりません」
「好都合ね」龍脈を切ってエシリアがどうなろうと、プレシアには関係がない。「ロムルスを退けてからそろそろ三週間。早ければもう一週間もしないうちに攻め寄せてくるでしょう。クラウネルを上手く焚き付け、私たちも討伐隊に加わるのです。私と貴女で、竜を討伐するのではなく、その身体を手に入れます」
それこそが、プレシアがエシリア島に来た目的だ。
成し遂げた暁には、フェイト家の再興が約束されている。
父と兄、そして一族の誇りにかけてプレシアが、いや、プレシアス・ヘルツ・フォン・フェイト・グローリアが成し遂げなければならないのだ。
「クラウネルに会います。服を持ちなさい」
床に足を下した拍子に傷口が痛み、思わず顔をしかめる。
だが、耐えられないほどではない。
包帯をばらりと解き、眼帯を持ってこさせる。
黒い布地で作られたそれを見て、まるで海賊のようだと思う。
ロムルス貴族にとって、傷は勲章だ。
それは戦場に出た証。
国家への貢献の印なのだから。
女の身であれば、顔に傷の一つもあった方が舐められずに済むというもの。
眼帯を目蓋に当て、頭の後ろで紐を縛った。
立ち上がる。
何歩か足を踏み出してみる。
大丈夫。
何も変わらない。
自分はまだ戦える。
そう思った。