二十六話 理由
そして貴女は、全てが等価だと知ることになるでしょう。
老いも若きも、富める者も貧しき者も、全ては生き、そして死ぬ。
死は等価であるがゆえに、どのような生もまた等価なのです。
――師の言葉
フィルシィは、自分を我慢強い方だとは思っていない。
百年もの間、脱出の機会を倦むことなく淡々と待ち続けたという意味では我慢強いと言えるのかも知れないが、それは大して苦痛でもなかった。究極的には自分が自分であり続けさえすれば、フィルシィにはそれでいいのだ。逆に自分が損なわれるような事態、例えば拷問を受けるようなことになったら、すぐに音を上げる自信がある。痛みや苦しみに引き換えにしてもいいと思えるだけの、愛国心や誇りといった熱量が自分の中には存在しないのだ。
やる気や使命感といったものを、フィルシィは持たない。
その代わり、準備に手間をかける。
人が熱情によって支払うものを、フィルシィは時間と手間で支払うのだ。
それは、この世界という物語に自分という伏線を張り巡らせる行為と形容できる。
フィルシィが見るもの、聞くもの、触れるもの。
それらを、フィルシィは決して忘れない。
とりあえず全てに呪いをかける。
そうして世界と自分を繋げていくのだ。
物忌師はそうやって世界を愛し、そして呪うのだと。
そう、お師匠様に教わったから。
特に、三百年前から百年前までの二百年間は、ここエシリア島を重点的に歩き回った。
物忌の力がエシリア島に固有の呪いだとされているのは、その間に行った事跡のため。
思い返すと、微笑ましい気分になる。
色々なことをした。
人助けもしたし、悪者をこらしめたし、もちろん悪巧みも巡らした。
あの頃は、自分も若かったものだと思う。
仮に船酔いに悩まされていなければ、口元に笑みの一つでも浮かべるところだった。
「――――っ!?」
もう、声を出す気力もなかった。
容器に顔を突っ込み、吐く。
もはや、胃液も出ない。
一度、船尾から海に転げ落ちそうになってからは、船べりに近づくことも禁止された。もう染み付いてしまっているのか、その醜悪な臭いがより一層気分の悪さを加速させる木の容器を与えられ、船室の隅にうずくまっているというのが現状だ。
恥も外聞もない。船から下してもらえるのなら何でもすると泣いて懇願したい気分だった。実際、最後の意地で懇願だけはしていないが、それはしても無駄だと理性が訴えているからで、仮に懇願してその願いが叶うのならば、フィルシィはあの竜司祭にさえ懇願していただろう。
フィルシィには、誰にも教えたことのないことが一つある。
カルティアからエシリア島に渡り、そこに留まった理由だ。
フィルシィは、致命的に船に弱かったのだ。
初めて乗った船で、その事実を思い知った。
エシリア島に上陸してしまうと、もう駄目だった。
もう一度船に乗ってどこかへ公開しようという気は失せてしまった。
もう、あまりに情けなくて、自分でも笑ってしまうようだけれど、エシリア島への初航海で船酔いを体験して以来、船だけはダメになってしまったのだ。当初はロムルス領に抜けるつもりだったが、エシリアとロムルスの間に橋がかかるか、空を飛んで渡れるようにならない限りは渡らないと、フィルシィはそのとき固く誓ったのだった。
それから三百年。
長い年月が経ち、身体も乗り換えた。
船酔いへの耐性がついているのではなかろうかという淡い期待は、見事に裏切られた。
桟橋を渡った瞬間、まずいなと感じ。
船が岸を離れて半刻も経てば、それは確信に変わった。
そこからガラニアにつくまでの記憶は、抜け落ちている。
三百年前のことを昨日のことのように鮮明に思い出せるフィルシィの脳髄が、記憶を拒否したのだ。今もまた、頭の働きはかつてないほど鈍くなっている。その頭が、せめて別のことを考えろと悲鳴を上げる。
そう、悪いことばかりではないのだ。
今、フィルシィたちはシルニアに続いてガラニアの龍脈を切断し、次の港町グリジェニアに向かう船上にある。
ガラニアでの龍脈切断そのものは造作もなかった。
街の中心部を走る龍脈を探し当て、その力の流れを見出し、散らし、見出し、断ち切る。
新しく手に入れた短剣〈フラグメント〉はやはり素晴らしかった。
彼女は、生まれた時から共にあったかのように手に馴染んだ。
まるで、短剣そのものが赤竜に害なすことを望んでいるかのよう。
優れた武器を、身につけた技術を、自らの思うがまま存分に振るう高揚は、武芸者にも共通するものだろうと思う。それはこの百年、久しく絶えてなかった気分だった。
少々、カルティアの警戒が緩すぎるという気はしないでもなかったが、そもそも龍脈についての知識を持つのは一部の竜司祭だけであり、秘中の秘でもあれば易々と明かすわけにもいかないので、駐留する軍は警戒どころか見向きもしていないのは当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。事実、プレシアという女はレオンティナとそう話し合っていた。
だから、フィルシィの懸念は勘のようなものだ。
うっすらとまとわりつく、嫌な感じ。
一流の武芸者のように殺気は感じ取れなくとも、作為と悪意を感じ取る力ならば誰にも負けないとフィルシィは自負している。なぜなら、自身がそれらの使い手たるを自認するからだ。その勘が、告げている。何となくやばい、と。
同時に、それはフィルシィにとってのチャンスでもある。
仮にクラウネルの言うとおりに龍脈を切ったとしても、そのまま解放されるなどという甘えた考えの持ち合わせは最初からなかった。クラウネルが手を下さずとも、プレシアかアンヘリカ辺りは、用済みになったフィルシィを殺しにかかるだろうという確信めいたものがある。
シルニアに戻る前に、どこかで逃げなければならない。
方法はまだ考えていないが、それでもやるしかないのだ。
自分でも無茶だとは思う。
「でも、これでこそ生きてるって感じが……うええ……」
本当に。
格好悪いことこの上ない。
全く、誰がフィルシィにこのような苦行を強いているのか。
そいつだけは、是非とも呪い殺してあげなければならないだろう。
そう思った。




