二十四話 報い
心配しなくても、貴女を大事にしてくれる人はきっといる。
そう、農夫が畑の心配をするようなものだもの。
それを拒むのなら、私と来なさいな。
――師の言葉
シルニアの城壁に沿って流れるアーテル川の側を歩きながら、ふと微笑む。
お師匠様の気持ちが、今ならば分かる気がしたのだ。
きっとお師匠様もフィルシィと別れた後、こうして龍脈を切っていったのだ。
竜とは、世界の理そのもの。
竜を何とかしようと思っても、その力の源たる龍脈でも切らない限り、生身の人間の手には負えるはずもない。龍脈の力を借りて力を行使する物忌師であればこそ、龍脈を切るというところへ思考が及んでいたはずなのだ。
しかし、竜の討伐によって何が引き起こされるのかは分かっていない部分も多い。
伝説に謳われる七竜の内、フィルシィが生存を確認できているのはわずかに二頭。カルティアの黒竜とエシリアの赤竜だけだ。残りの五竜の内、青竜は始まりの竜騎士によって討伐され、白竜はロムルスの手にかかって謀殺されている。ブリティアの鋼竜は三百年ほど前から行方知れずとなり、黄竜は遥か東方に存在すると言われるだけで誰もその姿を見た者がいない。最後の一頭である〈暗竜〉に至っては、伝説上で語られるだけで実在しないのでは、などと言われている始末だ。
つまり、確実に生存していると言えるのは現在、黒竜と赤竜のみ。黒竜はカルティアの手によって契約という名の拘束を受けているため、真に完全な形で竜が存在し、龍脈の力が保たれているのは、世界中でもここエシリア島だけなのだ。
その赤竜を討伐したことで、エシリア島ひいては世界にどのような影響が及ぼされるのかは、フィルシィにも分からない。ただ一つ言えるのは、決していい結果をもたらさないだろうということだ。
しかし、どうでもいい。
確かに、竜が絶滅すれば世界の形は大きく変わる。
世界の枠組み、万物の理が歪み、捻じ曲げられるだろうということは想像がつく。
だが、それがなんだと言うのか。
それで死ぬのは、結局のところ弱者だ。
何事もなくとも百年もすれば死に絶える程度の、儚い生なのだ。
つまるところ、死後の世界というのはまだ生きている人間のものであり、その一人たるフィルシィがそれでいいと感じているのだから、それでいいのだとフィルシィは考えている。別に文句があるならそれでも構わない。それならそれで、フィルシィを打ち倒して自らの思うところを成せばいい。
それができなかったからこそお師匠様は行ってしまったのだし、それができないからこそフィルシィがこうして龍脈を切っているのだ。
フィルシィは、裸足で地面を踏みしめながら歩く。
足の裏を通して、自分が世界と繋がっているのが分かる。
龍脈の場所は、地図上でも大体の見当はつけられるが、最終的にはその場に立ち、繋がってみないことにははっきりしたことは言えない。その流れを効率的に阻害し、断ち切ってしまうためには、位置を確かめた上でそれなりの手順を踏む必要があるのだ。
プレシアという女の依頼で〈フォスフォラス〉から造り出した短剣は『欠片』の意味を込めて〈フラグメント〉と名付け、鞘に収めて腰に差してある。同じ〈フラグメント〉の銘を持つ十二本の長剣と一本の短剣から成る〈フラグメンツ〉の内の一本だ。
十二本の長剣には、真銘である〈フラグメント〉とは別に、それらしい銘を刻んでクラウネルに渡してある。十二本で一組なのだと見せかけるために星座から名を取ったが、全部でたらめだ。聞かれはしなかったから、嘘を言ったわけではない。
ただ、造り手であるフィルシィが付けた正式な銘を知らなければ、使い手が竜騎士の力を行使したところで剣の力を十全に引き出すことはできないだろうというだけのこと。そして、そんなことはフィルシィの知ったことではない。真の銘を知らない方が悪いのだ。
そんなこととはつゆ知らず、さっそく何本かが彼の配下の騎士たちに授与されたようだ。彼らは、竜の討伐が成った際には、その血を使って竜騎士の力も与えられるらしい。仮にそうなったとしても、早晩ロムルスかカルティアの竜騎士に殺されるのが落ちだろう。そのころにはフィルシィは自由を得て、どこか遠くへ逃げているはずだ。
全く問題はない。
とてもいい気分だ。
「このへんかな」
腰に下げた革の鞘から〈フラグメント〉を抜き、地面に突き立てる。
普通の人間には単なる草原としか見えないが、一帯に走る龍脈の要となる地点だ。
眼に見えない力の流れが、確かな手ごたえを返してくる。
そして、急激に周囲の風景が色褪せた。
草原が生気を失い、清流の流れが淀む。
腐ったものの臭いを嗅ぐような不快感。
こみ上げる吐き気を押さえるのに一苦労する。
「……適当なことを言って、我々を欺いているのではないだろうな」
立派な体躯の軍馬を寄せてきたクラウネルが言う。
彼は、周囲の変化に気づいていないようだ。
「どうせ、竜の討伐には私も連れていかれるのでしょう? 手を抜いて死ぬような真似はしないわ」
フィルシィの眼には変化は明らかなのだが、素養のない者には分からないだろう。
ぐるっと見回してみた限りでは、竜司祭の女はかすかに違和を感じている様子だった。それ以外では、顔にこそ出さないが、レオンティナが気付いているはず。彼女自身には直接影響を与えないだろうが、決して愉快な気分ではないはずだ。エシリア島ではなく、どこかにある彼女の故郷の龍脈を切るような真似をすれば、フィルシィは即座に殺されるだろう。
先だって二人だけで会話した際に、彼女に危害を加える気は毛頭ないことを説明し、一種の休戦協定を結びはしたが、今なお、フィルシィが下手を打って消される可能性は消えていない。彼女が何を目的としているのかは分からないが、あの主従の邪魔をすることは避けた方が無難だろう。あくまでも、今のところは、だが。
川のほとりにしゃがみ、水の流れに両手を浸す。
百年ぶりに、手枷は外されている。
まあ、そのことを思えば、ヒルダとかいうロムルスの竜騎士が監視につけられたぐらいは許容範囲。
あとは男がいれば文句はないが、クラウネルは誘いに乗ってこないし、護衛兼監視役として常に側についているヒルダは女だ。その他のエシリア騎士どもは、塔の魔女という評判を恐れてか近づこうともしない。意気地なしどもめ、と罵ってやっても、怒るどころか益々恐れる様子を見せるのだ。からかいがいもない。
しばらく流れの中で手を泳がせていると、力の流れがほんの少しずつ弱くなっていくのが感じ取れた。龍脈が切れた証拠だ。このまま細り続けていけば、一か月で完全に断ち切れるだろう。
「はい、終わり。ああ、おねぇさんちょっと疲れちゃったなぁ」
肩に手をやり、その拍子を装って服をはだける。
「誰か揉んでしてくれないかしら」
「馬鹿なことを言っている暇があったら、出発するぞ。僕たちには時間がないんだ」
クラウネルが馬上から言い捨てる。
「次はどこで切ればいいの?」
「ガラニアだ」
「ガラニアというと、シルニアの西にある港町でしたね。現在はカルティアの支配下にあるはずですが……」
プレシアがそう言って竜司祭の女をちらりと見る。
「確認しておくぞ、フィルシィ。龍脈を断ち切るには半刻あればいいのだったな?」
「まあ、それくらいでしょうねぇ」
「……カルティアはすでに自分のものにした気でいるのか、支配下に入れた各都市を拠点として交易を再開しているとの情報が入っている。情けないことに、我が王国の臣民の中にもそれに加担する者がいるそうだ。つまり、人の出入りには比較的寛容ということ。少数で忍び込む分には問題あるまい。幸いと言うべきか、最近は竜の動きが鈍いらしく、襲われる船が少なくなっているという情報も入っている」
「潜入については、エシリア人ではない私やレオンティナが適任でございましょう」
プレシアの言葉にクラウネルはうなずき、竜司祭の女にも目を向ける。
「アンヘリカはどうか?」
「私の顔は見知っている者がいるやも知れません。確実を期すなら、私やクラウネル様はシルニアに留まり、陽動に徹する方がよいかと。万が一、潜入部隊が敵の手にかかった際にも赤竜の討伐隊をすぐに出すことができます」
「ふむ、そうだな。では、プレシアとレオンティナ、それにヒルダの三人に潜入してもらうこととしよう。手筈通り、秘密裏に仕立てた偽装商船でガラニアに入れ。僕とアンヘリカも部隊を率いて先発し、陸路で攪乱を行う。くれぐれも、慎重にな」
「はっ!」
「では、出発」
フィルシィは、ヒルダに引っ張り上げられて彼女の前に座る。馬は嫌いだ。馬の方でも嫌うらしく、フィルシィが近づいた馬は例外なく蹴るか噛むかしてくる。今も、暴れかけたのをヒルダに御されて大人しくしているという格好だ。
まあ、シルニアを早く離れるに越したことはない。数日も留まれば、龍脈を切った影響が目に見えて現れ、咎められるに違いないからだ。そうなってしまっては、さすがに誤魔化しきれなくなってしまう。
龍脈とは、すなわち世界の理の力。
切れば、確かに竜は弱体化するだろう。
しかし、それと同時に地の恵みは枯れ果て、海の恵みは腐れ落ちる。
来年あたり、エシリア島は凶作と疫病に見舞われる。
きっと、大量の餓死者と病死者が出るだろう。
今、この瞬間にそれが決まったのだ。
これは、報い。
竜を倒す方法があるなどという甘い話に飛びついた、愚かな王子への、愛にして呪い。
フィルシィを百年にも渡り狭い塔へ閉じ込め続けた一族への、ほんの返礼に過ぎない。
思い知れ。
貴様たちを殺すのに剣は必要ない。
我らの戦いをその身に刻んで死ね。
犯した罪の報いを受け取るがいい。
物忌師は、受けた屈辱を決して忘れはしないのだ。




