二十二話 苗床
貴女には血統がある。
ただそれだけ。
だから、そう、苗床くらいの価値はあるかしらね。
――師の言葉
フィルシィは、久方ぶりに愉快な気持ちでいる自分を見つけていた。
そう、それこそ、この百年で一番と言ってもいいくらい。
レオンティナ。
彼女と会えたことは、この百年の無聊と引き換えにしても余りある収穫だった。
だから、クラウネルが竜司祭の女を連れていることぐらいは我慢しよう、と思えた。
自分にしては珍しいほど寛大な気分であると評価できる。
「それで、おねぇさんに竜を倒すのを手伝って欲しいんでしたよねぇ、坊や?」
再びフィルシィの前に立ったクラウネルがうなずく。
「そうだ。無事に赤竜を倒すことに成功すれば、お前をここから解放してやる」
「へぇ……それで、いいのぉ?」
「バスタムーブ家の掟には、物忌師に関して決められたものが二つある。物忌師を逃がすなかれ。物忌師を殺すなかれ。この二つだ。……どこにも、物忌師を解放するな、とは書かれていない」
「あら……いつの間にかそんな詭弁を弄するようになっちゃってぇ。おねぇさん、悲しいわぁ」
「……僕は、貴様を人だとは考えていない。侮辱には、取り合わないぞ」
そう宣言すること自体が、彼がフィルシィを人間だと認識している証。とても可愛らしい、とフィルシィは思う。フィルシィ自身は、とっくの昔に人間であることをやめていると言うのに。
「これは契約だ、物忌師。僕たちの赤竜の討伐に協力しろ。成功すれば貴様を解放する。だが、失敗すれば貴様の命はないものと考えろ。よいか、そのことを理解した上で、心して答えよ。貴様に、赤竜を倒す方策はあるか? 仮にないのだとすれば、それもよし。永遠にこの塔に囚われたまま、生にしがみつく自由も貴様にはある」
これが精一杯の挑発なのだろう。そんな彼の自尊心を傷つけてはいけないと、フィルシィは目を細めて笑いをごまかした。
「ふふん。ただの人たる坊やに愚弄されるいわれはないわぁ。竜ごとき手玉に取れないようでは、物忌師フィルシィの名折れだものねぇ。心配しなくたって、それが生あるものである限り、このおねぇさんが愛し呪い悶え苦しませながら逝かせて差し上げられないものなんて存在するわけがないじゃないですかぁ」
「そうか、ならば……」
「あっ……もう、せっかちなんだからぁ。おねぇさん、竜殺しを手伝うなんて一言も言ってないのにぃ」
「なっ……! 貴様、倒す方策があると言った口で何を言い出すのか!」
「竜を倒せることと、おねぇさんにその気があるかどうかは、別。一つ賢くなったわねぇ、坊や?」
怒気が膨れ上がり、部屋に満ちる。また剣を抜かれるかと少しだけ身構えたが、クラウネルは怒りを鎮めるように大きく一度だけ息をついて、言った。
「……それで、貴様にその気はあるのか?」
「そう、よくできました。素直な坊やって、おねぇさん好きだなぁ。うん、いいよ、初めてだもんね。おねぇさんに任せてくれたら、全部導いてあげるから、怖がらなくってもいいんだよ?」
「……いつまでも戯言に付き合っている時間はない。竜を倒すため、貴様には何ができる。協力するための条件も合わせ、言え」
「簡単なこと。ただ龍脈を切ってやれば、それでいい」
からかうのも、そろそろ飽きてきた。意図的にねっとりと媚びるように喋ってきた口調を、感情を込めない淡々としたものへ切り替える。クラウネルたちが、はっとしたようにフィルシィを見つめるのが分かった。
「シルニア、ガラニア、グリジェニア、セルニア、モディニア、メッシニア、カタルニア。エシリア島の七つの都市は、優良な港であると同時に、エシリア島と世界とが繋がる場所でもある。竜の力とは、すなわち世界の理の力。ゆえに、その繋がり……『龍脈』を断ち切れば、竜は弱体化する。か弱き人の剣でも、きっと届くようになるでしょう」
「その『龍脈』というものを断ち切ればいいのだな? 僕たちはどうすればいい」
「これを外して」手枷を持ち上げ、言う。「断ち切るためには、わたし自身が龍脈の走る地に足をつけ、物忌の力を行使する必要がある。わたしはよく知らないのだけど、貴方たちは今、どこかと戦争しているのでしょう? 七都市は保持できているのかしら?」
「……それを教えるわけにはいかない」
「じゃ、わたしもこれ以上は教えない」
言葉を切り、無言のまま睨み合う。先に折れたのはクラウネルだった。
「……分かった。教えよう。現在、我々の勢力圏内にあるのはここシルニアだけだ。その『龍脈』は、七本全部切る必要があるのか?」
正確に言えば七本だけというわけでもないのだけれど、それは今はどうでもいい。ただ首を振って、否定する。
「いいえ、切れば切るほど効果が上がるのはもちろんだけど、一つ切るだけでも効果はあるわ。具体的にどのくらいかは教えてあげない。っていうか、知らない。当然よね? 切ったことなんてないんだもの。貴方たち自身がどれくらい強くて、どれだけ時間が残されているのかは知らないけれど、よく相談しながら自分で考えなさいな」
それだけ言って、あどけなく見えるだろう笑みを浮かべてやる。
物忌師たるもの、常に笑って世界を愛しなさい。
そう教えてくれたのは、お師匠様。
「それと、そこの女」
指の先には、竜司祭の女。
口調を、再び元に戻す。
「何か、黙ってるよねぃ。おねぇさん、そういうの分かるんだからぁ」
物忌師たるもの、目を瞠って全てを呪いなさい。
そう教えてくれたのも、お師匠様なのだ。
そのためには、わずかな兆候であっても見逃してはならない。
フィルシィは、確かに見た。
彼女が龍脈を口にした瞬間、アンヘリカは確かに反応したのだ。
竜司祭の女は、明らかにそれを知っていた。
そして、それを黙っていたのだ。
なにか、後ろ暗いことがある証ではないか。
それを知って、フィルシィが黙っていると思ったら大間違いだ。
不和の種は蒔けるときに蒔けるだけ蒔く。
それはフィルシィの信条といってもいい。
別に全てが実を結ぶ必要はない。
百蒔いて、二つか三つ芽が出れば、それでいいのだ。
人間の関係なんてものは、その程度で呪い殺せてしまう。
本当に、笑ってしまうほど簡単なのだから。
「クラウネル様、この者はやはり信用できません」
しかし、大して動揺する様子も見せずにアンヘリカは言う。そして続ける。
「確かに、龍脈と呼ばれるものは存在します。しかしそれは、人の手で触れること敵わぬもの、いえ、決して触れてはならないものなのです。加えて、竜の弱体化は、その血によって生まれる竜騎士の弱体化に直結します。クラウネル様がロムルスやカルティアに対抗しうる竜騎士団を編成されることを望むのならば、竜は今のままで討伐せねばならないというのに、この者はそれについては沈黙し、我々を陥れようとしていたのです」
反論として筋は通っている。
だが、甘い。
「売女は言い訳と自分に都合のいいことしか口にしない。思い返してみなさいな、殿下。わたしは初めてこの女と会ったけれど、彼女は普段からこんなに饒舌なのかしら? 都合のいい言い訳めいて聞こえるのはなぜかしら?」
「…………」
クラウネルは一言も発さない。
竜司祭たるアンヘリカが普段から饒舌だとは、到底思えない。
彼女はまだ若い。お喋りがこの歳にして竜司祭に任じられるわけがないのだ。
顎に手を当てて黙考するクラウネルを見て、フィルシィは内心でほくそ笑んだ。
これで、アンヘリカに対する疑念をクラウネルは抱いたことだろう。
もちろん、この場でどうこうなるわけではない。
使える人材であるアンヘリカを、クラウネルは簡単に手放したりはしないだろう。
それでも、一度抱いた疑念は容易には消え去らない。
あとは、それをゆっくり育ててやればいい。
種は、いつか芽吹くことになるだろう。
「クラウネル様……!」
「アンヘリカ……すまない、外してくれるか」
「……はい。分かりました」
信じるべきではない言葉に耳を傾け、信じるべき人間を疑う。
本当に、人間というのは悲しく、そして滑稽な生き物なのだ。




