二十一話 相似
契約を順守させるは信義に非ず。
報復の術持たぬ者に栄光はない。
――カントゥルス・レムス「ロムルス人の警句」より抜粋
プレシアたちは、レオンティナを残していったん塔を降りた。
扉の前の衛兵さえもが一時的に遠ざけられる。
魔女の塔に住んでいるのは、元々フィルシィだけなのだという。世話をする侍女や衛兵たちは定期的に入れ替えられるため、それぞれの宿舎から通っているのだ。万が一にも彼女が他人の体を乗っ取って塔を脱出したりしないよう、掟によってそう定められているのだとか。
そんなわけで、今、この塔にはレオンティナとフィルシィしかいない。
フィルシィが、協力の条件としてレオンティナと二人だけでの会話を望んだからだ。
その理由について、クラウネルがいくら尋ねようともフィルシィは語ろうとしなかった。
彼女とクラウネルの会話を思い返す。
分かりやすいぐらいに、無邪気な悪意。
それが、物忌師オース・フィルシィの第一印象だった。
悪意は隠してこそと考えるプレシアとは、真逆。
きっと、向こうもプレシアにはいい印象を持たなかっただろう。
実際、プレシアは部屋に入った時に一瞥されたきり、見向きもされなかった。
短い会見だったが、その中で特筆すべきは、やはりその鋭敏な観察眼だろう。
彼女は、わずかな時間でクラウネルが竜騎士となっていることを見抜き、それを具にした性的な嘲りの言葉を、彼とアンヘリカの両方にぶつけていた。言葉の選び方は悪辣で、ただの幼女としか思えない外見と声で放たれるそれらの言葉は、いっそ醜悪な印象すら与えた。傍で聞いているだけのプレシアですら、不快な気持ちにさせられるほどだったのだ。
一つ気になったのは、彼女の言葉には、クラウネルに対する嘲りの気持ちよりもむしろ、アンヘリカに対する憎しみが強く込められているようにも思えたことだ。
クラウネルの言葉が真実だとすれば、彼女は百年近くこの塔に閉じ込められていることになる。二十歳そこそこのアンヘリカと接点があるはずもないので、その憎しみはおそらく、アンヘリカ個人というよりもカルティアの竜司祭という存在に対して向けられたものと考えられる。
どういう背景があるのか、少しだけ興味があった。
「クラウネル様」
塔の壁に体重を預け、難しげに顔をしかめているクラウネルに声をかける。
「そもそも、物忌師とは何なのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ああ……そうだな。奴がレオンティナと話をしている間に、説明しておこう」
衛兵たちは遠慮がちに少し離れた場所に立っているので、話を聞いているのはクラウネルとプレシア、それにヒルダとアンヘリカの四人だけだ。
「と言っても、現存する物忌師は奴しかいない。だから、僕にも王家に伝わる伝承以上に詳しいことは分からないんだ。……その伝承には、物忌とはここエシリア島に伝わる呪いの一種なのだ、とある」
「具体的にはどんな伝承が残っているのですか?」
「例えば、肉体の支配だ。物体に呪いをかける物忌の力は、人間の身体にも及ぶのだという。奴が今使っている身体は僕の曾祖父の妹君、つまり三代前の陛下の息女のものなのだ。王家の伝承では、姫君を言葉巧みに籠絡した奴は、物忌の力で身体を乗っ取ったのだとされている。おお、神よ忌まわしき呪いから我を守りたまえ」
「身体を乗っ取る力、ですか」
レオンティナを、チャームブランドの力を想起せずにはいられなかった。他者の身体を使役する能力。あるいは何らかの関係があるのだろうか。仮に、フィルシィが何らかの方法でレオンティナの正体を見抜いたがために二人きりでの会話を望んだのだとすれば、彼女を生かしておくのは危険かも知れない。
「まずありえないこととは思いますが、王位継承者の身体を乗っ取られるようなことがあれば厄介ですね。なぜそのような危険な存在を生かしたままで幽閉されているのですか?」
「曾祖父の遺言があるのだ。奴を決して殺すな、と。今際の際のことだったと聞くから、その真意がどこにあったのか、今となってはもう分からないが……」
「……出過ぎたことを申し上げたようです」
「いや、構わない」
口ぶりからすると、クラウネルをうまく唆して殺すのは難しそうだ。そういえば、首尾よく赤竜を倒せたら開放するとも言っていた。殺すのは駄目でも、逃がすのなら問題ないのだろうか。あるいは協力させた上で約束を反故にするつもりなのだろうか。そうなのだとすれば、王族としてずいぶん成長したものだと思う。
「他には、どのような力を?」
訪ねたのはアンヘリカだ。珍しく、興味を示しているようにも見える。
「そうだな……物体に意志を込めて奇跡を起こしたり、特定の物と人とを結び付けたりもすると言われているな。奴が『祈祷』をあげた村に疫病が流行ることは決してなく、奴が『祝福』した剣士は急激に剣の腕を上げていったという伝承が残っている」
「それらの奇跡について、物忌師が何と説明していたかは伝承に残っていますか」
「ふむ、奴は不遜にも『赤竜の加護』を騙ったとされているな。それがどうかしたのか?」
「…………いえ、大したことではありません」
少し言いよどんだ後で、アンヘリカはそう答えた。
「そうか。ならばよいが」
少しだけ、疑問に感じた。これまで、アンヘリカが自分から口を挟むことはほぼなかったと言っていいのだ。フィルシィのアンヘリカに対する態度といい、物忌師と竜司祭の間には何かがあるのかも知れない。これは、後々何かに使えるだろうか。とにかく、覚えておく必要があるだろう。
「プレシア」
「はっ」
物思いに沈んでいるところに、急に声をかけられた。
「今までの話を聞いて、物忌師が何かに似ているとは思わなかったか?」
「物忌師が、ですか?」
レオンティナ。とっさに想像したのはそれだったが、さすがに口に出すわけにはいかなかった。だがクラウネルにはレオンティナの正体を勘付かせてはいないはず。彼が何のことを言っているのか、少し戸惑う。
「分からないか。ヒルダはどうか?」
ロムルスの竜騎士であったヒルダは、今は副官としてクラウネルの影のようにして控えていた。こちらも突然声をかけられて驚いている様子だったが、少し思案した後、意外な言葉を口にした。
「お話を聞く限りでは……竜騎士に似ていると、私はそう思いました」
物忌師と竜騎士。
言われてみれば、という感じもしないではない。
急激に剣の腕を上げた剣士の話などが、まさにそれだろう。
物忌師という名前からして、何か特定の物に対して何らかの力を付与する魔術なのだと言うことは推察できる。剣技の上達が、剣に込められた物忌師の力によるものだとすれば、確かに剣の力を引き出す竜騎士の在りようと似通っている。それが物忌の力か竜騎士の血なのかという違いはあるが、現象としてはよく似ている。
「そう、物忌師の力は竜騎士の力にとてもよく似ている。僕も、竜騎士の力を得てシルニアに帰還してから気付いたことだ。いや、そればかりとは言い切れないな。そう、子供のころから心の底ではずっと考えていたことなのかも……」
やや目を伏せ、内省に入るように言葉を途切れさせたクラウネルは、一度首を振ってから、ゆっくりと続ける。
「……そもそも、だ。君たちは疑問に思ったことはないか? 竜の力とは、一体何なのか。確かに、竜の血を浴びたり、契約をすることによって竜騎士の力を得られることは経験則として分かっている。だが、どのような仕組みでそうなるのだ? そこにどのような因果があり、何が作用して力が引き出され、人の身に非ざる力を得られるのか? それを解明できた者は誰もいない」
クラウネルの問いかけに、真っ先に反応を見せたのはアンヘリカだ。
「それは、竜が『理の外にあるもの』だからです」
「黒竜教会の教義は僕も知っている。そういうことではないんだ、アンヘリカ。君は、考えてみたことはないか? 竜騎士の力が『理の外にあるもの』から授けられるものなのだとしたら、竜騎士の血を引く子供が竜騎士の力を発現させることがあるのはなぜなのか、と」
それは、道理だ。黒竜教会が言うところの『理の外にあるもの』すなわち竜との契約を経ずとも、竜騎士の力が発現する場合がある。それこそ竜騎士と売春婦との間にできた子供であろうと、一定の割合で竜騎士の力は発現するのだ。
ロムルス貴族の間では、竜騎士としての血が濃ければ濃いほど高貴な血筋だとされる。それが意味するのは、血が濃ければ濃いほど、竜騎士の力が発現する確率が高まるということに他ならない。つまり、竜騎士の力とは血統の力なのだ。
であるからには、カルティアの竜騎士も生殖機能さえ残されていれば、生まれてくる子供の中には竜騎士の力を発現させる者がいてもおかしくはない。いや、必ずそうなるはずなのだ。
しかし、それは竜司祭たるアンヘリカの前でだけはしてはならない発言だった。
「それは異端に他なりません! 契約によって生まれた竜騎士こそが正統なのであり、それ以外は紛い物に過ぎない。紛い物は、来るべき終末の日には最後の一人に至るまで討ち取られる定めにあるのです!」
硬質な声に、妥協の余地は一切読み取れなかった。
そう、竜司祭としてはそう言わざるを得ない。
しかし、それはクラウネルの前でだけは言ってはいけなかった。
彼は黒竜と契約したのかも知れないが、決して黒竜教会の信奉者ではないのだから。
プレシアには、不意に降って湧いた不和の種を見逃すつもりはなかった。
「……それでは、アンヘリカ。貴女はクラウネル様が異端であると、竜司祭の名において認定すると言うのね? 竜を討伐し、その血によってエシリア竜騎士団を結成するというクラウネル様の悲願を否定すると言うのね? ……それは、反逆なのではないかしら」
「…………」
プレシアの問いに、アンヘリカは無言で返す。
凍り付いたような無表情からは、先ほどの発言を失言と感じているのかどうかうかがい知れない。プレシアでも分かる殺気が狭い部屋に満ちる。一触即発。ぴりぴりとした空気が肌を刺激する。それに気づいたヒルダがクラウネルをかばうように進み出たため、クラウネルの顔は見えなかった。
少しだけ、後悔する。
この場にレオンティナはいない。
巧妙に隠しているだけで、彼女もまた爪を隠し持っているのだということを失念していた。彼女がその気になれば、プレシアは一瞬で殺される。しょせん武人ではないプレシアは、頭で分かっていても、時々そのことを忘れてしまう。そんな自分の甘さに、歯噛みする。どうすればこの場を切り抜けられるか考えながら、手を剣の柄に伸ばす。時間稼ぎにしかならないだろうが、それでも無手よりはマシだろう。
「よい、プレシア」
無言の睨み合いは、クラウネルの言葉によって中断された。
「アンヘリカの内心は問題ではない。彼女は僕との契約に基づき、成すべきことを成すだろう。彼女が個人的な感情でその契約を破棄することは、彼女自身が信じるものを汚すも同じ。むしろ、僕の前で自身の信じるものに殉じる姿勢を見せた彼女をこそ、僕は信じたい」
あきれるほどに、真っ直ぐな言葉。
だが、うなずくしかない。
「……はい」
「アンヘリカも、それでよいな?」
彼女は、黙って頭を下げた。
クラウネルはそれだけ言うと黙り込んでしまう。後には、気まずい雰囲気だけが残された。誰も、一言も発さないまま、ただ待つ時間だけが過ぎていく。
階段を叩く一定のリズムと共にレオンティナが姿を現したのは、そんな折だった。
「皆様、お待たせいたしました。フィルシィ殿は殿下をお待ちしているとのことです」
普段と変わらないレオンティナの姿に、プレシアは安心を覚える自分を発見していた。
やはり彼女がいてこその自分なのだということを、心の底から実感する思いだった。




