十三話 振るいし剣は
人民はパンと娯楽ほどには国家を愛さない。
――カントゥルス・レムス「ロムルス人の警句」より抜粋
早朝のシルニア城の中庭には、馬のいななきと人々の吐く白い吐息だけがあった。
静寂を破ったのは、深い年輪を刻まれた老木を思わせる、落ち着いた声だった。
「皆の者、卑劣なるロムルスの包囲に対しこれまでよく耐えてくれたことを感謝する。そして今日集まってもらったのは他でもない、我が息子クラウネルの帰還を皆に伝えるためだ。……クラウネルよ、よくぞ無事に帰ってきてくれた」
エシリア王ディオニアが中庭を見下ろすバルコニーに立ち、隣に立つ人物が深く被っていたフードを手ずから取り去り、抱きしめる。騎士たちの間には静かなどよめきが上がった。
エシリア王国の継承順第一位のクラウネルが、二年前にカルティアへ『留学』へ向かったことはエシリアの支配層の間ではよく知られていた事実だ。留学というのは名目に過ぎず、事実上の人質であることは誰の目にも明らかだったため、この場にクラウネル本人が姿を現すことには大きな演出効果がある。
プレシアはそう主張し、王都シルニアへ入る際には闇夜に乗じて城へ入った。やむなく姿を見られた者には厳重に口止めし、王や陸海軍の指揮官を交えて今後の作戦の検討を行う際にも、必要以上に姿を見られないように細心の注意を払ってきた。そうした数日間の努力が、今ようやく実を結んだというわけだ。
ざわめく騎士たちを、片手を上げることでクラウネルが制する。
「みな、驚いたことと思う。まずは僕がいなかったこの二年間、父王と弟を守り抜いてくれたことを感謝したい。そして帰還が遅れたことを詫びよう。今、この国はロムルスとカルティアという二大強国に挟まれ、苦境のただなかにある。この状況からの挽回には、並々ならぬ努力と、諸君らの少なからぬ犠牲を伴うことになるだろう」
「しかし希望がないわけではない」
興奮した声で引き取ったのは継承順第二位、いや、クラウネルがカルティアの竜騎士の儀式を受けて継承順を失った今では第一位となった彼の弟、クラウディオだ。顔立ちは似通っているが、全体的に弟の方ががっしりした体格をしている。髪が潮焼けしているところを見ると、海に出ることも多いのかも知れない。
「我が兄クラウネルは我らを救うために帰って来て下さった。彼はその力を持ってこの国を、この国に住まう全ての民を救ってくれると私は確信する。私はエシリア王国軍の最高指揮官の職を辞し、我が兄クラウネルに譲ることをここに宣言する!」
おお、という騎士たちのざわめき。それには、わずかな戸惑いが混じっているようにプレシアは感じた。
当然だろう。常に王の側にありその治世を助けてきた弟クラウディオに対し、人質に近い形で二年もの間、敵国カルティアにいたクラウネル。いきなり軍の最高指揮官になどと言われても、承服できない者が多く出ることは分かりきっていた。
だからこその、この場だ。クラウディオが手を上げてざわめきを制する。
「指揮権の委譲に伴い、貴君たちを筆頭とする陸軍は兄クラウネルが統括する。なお海軍についてはこれまでと同じように私の統括とする。これは決定だ」
何か異論はあるかと言うようにクラウディオが騎士たちの顔を見回す。
しかし騎士たちはざわめくばかりで、誰も正面切って問おうとはしない。
「うむ。皆、戸惑いはあると思う。だが、まず見て欲しいものがある」
兄弟はうなずきかわし、クラウネルがマントを翻してバルコニーから飛び降りた。
今度は純粋に驚愕の声が上がる。クラウネルは重厚な板金鎧を身に付けている。常人であれば二階から飛び降りたら足が折れてもおかしくないところだ。しかし、彼は平然とした様子で、王国に伝わる宝剣〈フラーマ〉の鞘を払った。
火炎を意味するその名を表すかのように、少しずつ色調を変えながら複雑に絡み合う赤の刃紋が美しい逸品だ。彼は剣を手にしたまま、中庭の隅に立つ大木の前に立つと、ごく自然に構える。
空気が、変わる。
騎士たちの大部分は怪訝そうな顔で突っ立っているだけだが、何人かは思わず一歩退き、剣の柄に手をかけさえしていた。プレシアとレオンティナは、中庭の隅に立ってそれらを観察する。二人の役目は、部外者の目から見た将来の竜騎士団員候補の選定にあった。エシリアの人間では利害が絡んでしまうから是非にと頼まれれば、断る理由もなかった。
クラウネルの肩に担ぐようにして構えられた〈フラーマ〉が黒い光をまとう。それはカルティアの黒竜との契約で竜騎士になった者の印だ。赤い刀身とあいまって、暗赤色に光っているようにも見える。
気負いなく振り抜かれた剣は、気付いた時には鞘に収められていた。かすかな鍔鳴りの音がしたときには、大人でも抱えきれないほどの太さを持つ幹が斜めにずれ、めきめきと枝が折れる音を響かせながら中庭に倒れていた。
大斧で何百と打たねば倒れないだろう大木が、剣の一振りで切り倒されたという信じがたい光景に、集まった騎士たちは驚愕する。その機を捉えて、クラウネルは剣を掲げて叫ぶ。
「見よ! これこそ我が力、竜騎士の力だ! 我が勇猛なるエシリア騎士よ、そなたたちの力と我が竜騎士の力が合わされば、竜騎士のいないロムルス軍など恐るるに足らん! 赤竜の加護は我らにあり! さあ、いざ進め、今こそ憎きロムルス軍をその手で打ち払え!」
一瞬の沈黙の後、手に手に剣を振りかざしての大歓声が上がる。
士気は上々、後は勢いだ。
馬が引き出され、クラウネルを先頭に隊列が組まれていく。
合図で王城の門が開かれると同時に、騎士たちが鬨の声を上げた。
街を貫く大通りには、突然の騒ぎにどんどんと人が集まってくる。目ざとい者が先頭を進む騎士が王子クラウネルであることに気付くと、通りは歓呼の声に包まれた。クラウネルはそれによく応え、宝剣を振りかざして気勢を上げている。
隊列の向かう先は東の大門。内城壁と外城壁の間に集められていたのは騎馬一千と歩兵五千の総勢六千名だ。彼らは攻勢に出るとだけ知らされてそこへ集まっていたのだが、市内から聞こえる大歓声は一体何事かといぶかしむような視線で内門を見つめていた。
そこへクラウネルが現れ、隊列を止めて馬上で剣を抜く。
「エシリア竜騎士団団長、クラウネル・バスタムーブである! 皆、聞け! 我々はこれより敵軍司令部へ急襲をかける! 王国の興亡はこの一戦にあり、各員の奮戦を期待する!」
シンプルだが隅々までよく通る力強い檄が兵士たちに力を与える。鬨の声は大気を揺るがし、槍と盾を打ち合わせ、地を踏み鳴らす音はロムルス陣営にまで届いただろう。
外門が開かれ、クラウネルを先頭にして騎士たちと騎馬部隊がそれに続く。
歩兵部隊五千の内、四千は騎馬に続いて出撃し、残りの一千は第二王子クラウディオの指揮下で城壁の守備に振り分けられていった。
プレシアとレオンティナの二人は、城壁上から出撃の様子を見守っていた。
クラウネルが天高く掲げる〈フラーマ〉は暗赤色に輝き、後に続く者たちの士気を鼓舞している。やはりいい剣だと思いながらプレシアがじっと見入っていると、レオンティナが声をかけてくる。
「いつか主殿にあのような逸品を差し上げたいものです。主殿はいつも数打ちの安物ばかり使っておられますゆえ」
少し嫉妬を含んだような声に、思わず口の端を緩めてしまう。
「いいえ、いらないわ」
「佩刀の質は重要です。剣の差で勝負が決まることもありますれば……」
「私の剣はお前しかいない、ティナ」
「……はい」
それは、プレシアがフェイト家の家督とチャームブランドを継承した日に決めたことだ。
レオンティナ・チャームブランドこそがプレシアの振るう世界でただ一つの愛剣。それ以外の剣は道具であり、包丁や小刀などと同じで斬れさえすればそれでいいのだと。
「さて、私たちは私たちで動き出しましょう」
「はい、主殿」




