一話 人形の騎士
死は全ての生ある者へ平等に訪れる。
聞き逃すことなかれ、汝に忍び寄る死神の足音を。
――カントゥルス・レムス「ロムルス人の警句」より抜粋
「さて、新鮮な食材が卓に上がったようでございます。馳走になるといたしましょう」
そう言って立ち上がったのは三十半ばと見える壮年の男だ。
一目見て旅慣れた様子と分かる、よく手入れされた重厚な皮鎧とマントをまとっている。
腰には一振りの剣。無骨な黒塗りの鞘に収められたその剣の柄には宝石が埋め込まれ、衆目を惹きつける不思議な気を放っている。
男が身を伏せていたのは、港町メッシニアを見下ろす丘陵の一つだ。ここからは、街のあちこちで立ち上る黒煙が見て取れる。
その広がり方は、単なる火事ではありえない。
街を攻めるロムルス軍か、あるいは略奪されるよりはと街の人間自ら火をつけたものか。消し止める者もいない火は収まる気配がない。石造りの建物が多い港周辺が燃えている内はともかく、木造の建物が多い下町に飛び火したが最後、鎮火は不可能となるだろう。
だが、火を消し止めるべき住民はもうそこにはいない。
眼下の街門からは、巣から群がり出る蟻のような人の列がどこまでも続いている。
それを追う者はいない。ロムルスの兵たちはおおかた略奪に忙しいのだろう。
そのメッシニアの街から脱出する人民の列。そこに、マントとフードで風体を隠した十人程度の集団が紛れていた。彼らは街をある程度離れたところで人々の列を離れ、隣港カタルニア方面ではなく、二人が伏せていた内陸の丘の方へそれてくる。
彼らを見つめる瞳は、男のものだけではない。
芝居がかった男の声に応え、地面から身を起こしたのは若い女性だ。
「十人、か。レオン、数が多いけど大丈夫?」
男と同じく皮鎧とマントをまとってはいるが、傷一つない整った顔立ちや丁寧に編まれたつややかな黒髪、利発さを感じされるはしばみ色の瞳は、見る者にその高貴な生まれを感じさせずにはおかない。
「おお、情けない。我が主プレシア・フォーフィットは、始祖アナトリウスが剣にして、栄光あるフェイト家の誇りの体現者たる、このレオンティナ・チャームブランドの力をお疑いか?」
レオンと呼ばれた男は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて大げさに嘆いてみせる。
「敵は十名、いずれも徒歩です。全て仕留めてご覧に入れましょう」
そう言うとレオンはマントを肩にはね上げ、長弓を手に取る。常人では引くことすら適わない強弓に矢をつがえ、易々と引き絞って狙いをつける。
敵は盛んに後ろを気にしつつ急いでいたが、その中の一人が顔を上げてこちらを指差す。
「気付かれた」
「なに、隠れる場所はございません」
弓弦を弾く快い音が晴天に響き渡り、矢はこちらを指差す男の胸を貫いた。
残りの九名の視線が、射抜かれた仲間の体に釘付けとなる。
その一瞬で、もう一人が片目を射抜かれ、叫びを上げて崩れ落ちた。
たちまち二人がやられ、敵の中に動揺が走る。
否、億することなくこちらを見据える視線が一対。
「あれね」
「左様でございます」
二人を見据える人物のフードが風でまくれ、顔が露わになる。
敵の中でただ一人のその女性は、矢をつがえるレオンから視線を外さずに仲間を叱咤する。
内容は聞き取れなかったが、その下知に従って残りの七名が弾かれたように動き出す。
マントの陰に覗いたのは、長剣や短槍、それに投擲に適した手斧。
それぞれの武器をいつでも抜き放てるようにしてこちらへ走り出す。
正しい判断だった。矢から身を隠すための障害物はなく、また一行はレオンの弓の射程にすっぽりと飲み込まれている。後退したら彼らは弓によって全滅していただろう。
ならば前に出て活路を見出すしかない。頭では分かっていても、それを実行に移し、かつ部下をそれに従わせるだけの胆力を持つ指揮官は少ないものだ。
判断、そして行動に移すまでの速さ。
彼女の指揮官としての資質がそこに現れている。
「さて、武芸はいかほどのものか。こちらも試させていただきましょう」
レオンが放った三の矢は、指揮者であろうその女の膝に吸い込まれていくように見えた。
しかし、女は背負っていた剣を抜きざまに振り下ろして矢を斬り払うという絶技を披露する。それを目の当たりにした部下たちも勇気づけられ、喚声を上げてこちらに突っ込んでくる。
「ほう、見事な」
「あれくらいは避けてもらわねば、ここまで来た甲斐がございません」
レオンが口の端を歪め、にやりと渋く笑って見せる。
「気に入った? なら余計な傷は付けないように仕留めなさい、レオン」
「承知いたしました」
矢継ぎ早に放たれた矢が、正確に敵を仕留めていく。
レオンの動作はあくまでも優雅で淀みがない。
流麗な所作と、それを裏打ちする強弓を扱うための腕力。
剣士である以前に一流の弓手であることをまざまざと見せつけ、レオンは弓を置いた。
三人が弓に倒れ、指揮官を除けば残りは三人。
「プレシア様、お下がりを」
「構いません」
レオンはそれ以上何も言わず、剣の鞘を払う。
抜き放たれた刀身は、柄や鞘と同じく漆黒。
だが放たれる輝きはただの鋼鉄から成る鞘などとは別物。
幾度も折り重ね鍛えられたレイヴン鋼の刀身は、陽の光の下で見れば微妙な濃淡を持つのが見て取れるだろう。
続いてプレシアが鞘走らせたのは、こちらは一目で数打ちと分かる一振り。
構えを取るでもなく片手にぶら下げ、一歩だけ下がって成り行きを見守る。
指揮官に先んじて二人の下に辿り着いた生き残りの三人は、肩で荒く息をしながら二人を見比べた。そのすぐ後ろに指揮官の女。
レオンが手練であることは弓の腕から見ても明らか。なればレオンの相手はあちらで一番の手練である指揮官の女に任せ、まず三人がかりでプレシアを仕留める。常であれば傭兵部隊上がりである彼らはそう考え、それを実行に移していただろう。
しかし、その場の誰もがレオンの構える漆黒の剣に目を吸い寄せられていた。使い手たるレオンさえもがその場の主役ではありえず、剣が発する、剣自身がこの場の支配者であると言わんばかりの圧倒的な剣気に誰もが打たれる。
それに吸い寄せられるように、指揮官以外の敵がレオンの間合いに踏み込む。ともすれば見慣れているはずのプレシアすらレオンへ剣を向けてしまいかねないその剣気に、何の用意もなく触れてしまった兵たちに抗う術はなかった。
迂闊な踏み込みをレオンが見逃すはずもなく、軽いステップと共に剣が振るわれると二つの首が落ちる。くるりとターンし、残りの一人の首筋を狙った突きが放たれた。兵士が、自分の咽喉から生えた剣を信じられないという目で見つめる。するりと剣が抜かれると、兵士はそのまま崩れ落ちた。
血振るいをするまでもなく、希少金属レイヴン鋼の刃は血も脂もまとわない。
レオンは剣尖をぴたりと指揮官に向け、告げる。
「貴殿、傭兵部隊マメルティニの首魁、アナトーリア殿とお見受けする」
「貴様、ロムルスの手の者かッ!」
「確かに私も主殿もロムルスの人間だ。だが我らはこの場にロムルス人として立ってはいない。単なる私闘、ただ貴殿の命を貰い受ければそれで済むことだ」
「……ッ!」
問答無用とばかりにアナトーリアが踏み込む。
細身の剣は、精妙かつ迅速。
下段からの切り上げが途中から変化し、胸を狙った突きへ。
レオンは、意にも介さず前へ踏みこみ、アナトーリアの剣を身体で受けた。
正確な刺突は、分厚い皮鎧を深々と貫き通す。
剣が背に抜ける手応え。
致命的な一撃。
しかしアナトーリアの目は驚愕に見開かれていた。
一つは、レオンほどの相手が易々と攻撃を食らった、その意外さに。
もう一つは、致命傷を与えた相手の左手が、自らの剣を握る右腕を捕らえたことに。
アナトーリアの手首をつかんだレオンは自らの剣を地に突き立てると、空いた右手で彼女の細い首を掴み、そのまま地に押し倒す。明白な体重差に抗い切れず、アナトーリアは仰向けに倒されてしまう。
倒れた拍子に、胸の剣は柄が鎧に当たるほど深々と突き立っている。
常人ならば痛みで気力と握力を失ってもおかしくないところだが、レオンの手はアナトーリアをがっちりと拘束して逃がさない。
「どういう、つもりだ……」
苦悶交じりで吐き出された疑問にレオンは答えず、高らかに叫びを上げる。
「さあ、プレシア様! 今こそ我を手に取り、この者の魂を喰らいなさいませ!」
成り行きを見つめていたプレシアは満足げにうなずくと、手に持っていた安物の剣を捨て、地に突き立てられたレイヴン鋼の剣を手にする。胸の前で天を指す様に真っ直ぐ立て、軽くまぶたを閉じて言葉を紡ぐ。
「我が名はプレシアス・ヘルツ・フォン・フェイト・グローリア。偉大なる始祖アルトリウス公が末孫、宝剣チャームブランドの主なり。契約により、汝の魂をしばし宝玉へ留め、その肉体を使役せん!」
誓詞を唱え終えたプレシアはチャームブランドを逆手に持ちかえ、両の手でしっかりと保持すると、地に押さえつけられたアナトーリアの前に立つ。
突き下ろされた剣は、女の心の臓を刺し貫いた。
アナトーリアの顔が、苦痛と恐怖に引きつる。
それは、ただ肉体の死に起因するものに留まらない。
自らの心臓を貫いた剣が与える、魂を喰われ、肉体を奪われるのだという確信。
絶望に目は見開かれ、口をぱくぱくさせるが、言葉は出てこない。
やがて瞳から光が失われ、事切れたのだと分かる。
それを見届けると、操り糸が切れたかのようにレオンの身体もがくりと崩れる。
プレシアはゆっくりと剣を抜き、口元をほころばせる。
「痛くしちゃって、ごめんなさいね?」
悪戯っぽく、くすりと嗤ってみせる。
「主に貫いていただくことこそ我が至上の喜び」
その声は男のものではなく、アナトーリアのもの。
彼女はレオンと呼ばれていた男の身体を押しのけ、立ち上がる。
男の腰から剣帯を外し自分のものと付け替えると、プレシアから宝剣チャームブランドを受け取る。そして、見る者が見れば一目で業物と知れる優美な彫刻が施された細剣を、惜しげもなく地に突き立てた。
どこか墓標のようにも見えるそれには、もう二人とも見向きもしない。
「それじゃ行きましょうか、レオンティナ?」
プレシアはアナトーリアであった存在にそう呼びかけ、彼女もそれに応えた。
「はい、我が主よ。我が命ある限り、どこまでも貴女にお供いたしましょう」