崩壊と死
「終わった・・・」
就業のチャイムと共に、周りから安堵に似た吐息と、今から自由になれる歓喜が渦を巻き始めた。
俺は手早く荷物をまとめにかかった。大して仲のいい友人などいないが、万が一誰かにつかまりでもしたら厄介だからである。誘いを断るのに無理な労力を使いたくない。
1分もかからないうちに荷物をまとめ、さて帰ろうとしたとき、ふとある言葉が耳に入ってきた。
「おい、高峰。お前相舞の家の近くだろ?あいつ休みなのはいいが、連絡も来ないし、電話も繋がんないんだ。先生ちょっと部活で手が離せないから、ちらっと様子を見てきてくれないか?」
主任の大岩が、クラスの高峰博に話かけている。相舞愛莉も同じクラスの女子だ。確かテニスは全国に行きそうなぐらい上手かったはずである。そのほかの競技もそつなくこなす、いわゆるスポーツ万能少女ってやつだ。確かにめったに休まないやつが休んでいて、しかも連絡が取れないとなれば、少しは心配もするであろう。
・・・無意識に反応してしまったが、自分には関係のないことだ。さっさとここから撤退しよう。
そして、その場を後にした。
いつもの帰り道、いつもの風景、何も変わらない日常。
いつものように呼吸をし、いつものように生きている。それが当たり前だと思っていた。あの時までは・・・
何事も起きず、あっさりと家に着いた。こう何も起きないと望んではいないのだが、案外がっくりくるものである。やれやれと思いながら家の玄関を開けた。
「・・・うっ」
瞬間、中から異様な臭いがあふれ出てきた。一瞬にして、体が凍りつく。
(こ、この匂いは・・・)
匂いはほとんど異臭といってもよい。生臭さが鼻にまとわりつくようなそんな匂い。しかもここまではっきりと臭ってくるとなると、中はもっとひどいのだろうか。
玄関からは、この家の構造上、リビングを見ることはできない。目の前に伸びる小さな廊下が異様な雰囲気を醸し出している。
一つ生唾を飲み込んで、玄関の扉をゆっくりと閉めた。
大丈夫。体は何とか動くようになったようだ。
今この家の中で何が起こっているのか・・・。はっきりと確かめないわけにはいかない。
ゆっくりと靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
リビングの扉は閉まっていた。
ぴっしりと閉められた扉の向こうからは何も感じることはできないが、何か嫌な予感がしてしょうがない。
俺は大きく深呼吸をしてリビングの扉を開いた。
リビングは真っ赤に染まっていた。
壁も、テレビも、絨毯も・・・何もかもが、真っ赤だった。
少しずつ動悸が早くなる。明らかに、血だ。
こんなところで、家のリビングで、なぜこれほどの血を見なくてはいけないのか。いったい何があったんだ・・・
ふと、部屋の端に、黒い塊が転がっているのが見えた。
一目見ただけで判った。人間の頭部だ。。。
顔はこちらを向いていないが、あの髪型は母ではないのか。そんな予感がした。
見たくもないものだが、意に反して足が勝手に動き出す。脳がマヒしているのだろうか。頭がボーっとするが、意識ははっきりしている。少し視界がチカチカするがそれ以外に体に異常はない。ぴちゃぴちゃと、血の海を横断して母であろう頭部に向かっていく。
(俺はどうしたいんだ・・・)
俺はあそこに行きついてしまったらどうなるのだろう。なにをするつもりなんだろう。まるで、自分を外側から眺める感覚で見守っていた。
両腕がゆっくりと伸びる。両手がしっかりと母であろう頭部を掴む。途中まではゆっくりだったが、掴んだ後は一瞬だった。
「・・・」
言葉も出なかった。
それは多分母だったものであった。両目は抉り取られ、両耳と鼻は切り落とされ、唯一残っているのが、少し残っている眉と、唇だけであった。
何も感じない。いや多分何も考えたくないのだろう。さっきより激しく頭に靄がかかってきた。もう思考力なんてあったもんじゃ無い。俺は無残な姿になってしまった母を両手に抱えた、木偶の坊になってしまったようだ。
どれほどの時間が経っただろう。1時間?2時間?もしかして1日か?いや実際2~3分なのだろう。だが、今の俺には、1分が1時間にも、2時間にも感じてしまう。落ち着け俺。この後どうするんだ俺。ゆっくりと思考力が動き出す。
親父・・・美咲は・・・
そうだ。今日はあの二人も家にいたはずだ。
俺はもう一度辺りを見回した。
・・・いた。いやあったと言ったほうが適切か。。。
親父の頭部は、ソファーの近くに転がっていた。確かめなくてもはっきりと母と同じ状態であることは分かった。
美咲は・・・
もしかしたら自分の部屋なのだろうか。もしそうだとしても、生きている可能性は少ない。何らかの手違いで、まだ 家に帰ってきてないのならいいのだが・・・
美咲の部屋は2階の俺の部屋の隣にある。階段を上らなければならない。
ゆっくりと階段を上ろうとしたが、足元がびちゃびちゃとして歩きにくい。靴下が血まみれになっているのだ。そのままでは上りにくい為、靴下を脱いだ。靴下を脱ぐことにも何の抵抗も感じなかった。
1歩1歩、階段を上ってゆく。すると、階段半ばまで差し掛かった時、妙な音が聞こえてきた。くちゃくちゃと何かを食べるような音・・・そんな音が、美咲の部屋から聞こえてくる。
これ以上はダメだ。早くここから立ち去るべきだ!
そう考えている俺がいるのだが、全く体はいうことを聞かない。
とうとう美咲の部屋の前まで来てしまった。
心臓が激しく脈を打つ。目の前がさらにチカチカとし始めた。
俺はゆっくりとドアノブに手をかける。
そして、一気に扉を押した。
そこには獣がいた。いや、悪魔がそこにいた。
美咲の部屋の中も血で染め上げられていた。その部屋の真ん中にドンと大きな物体が座っていた。体は青紫色と言ったらよいのだろうか。青紫といっても、腐食したような汚い色・・・
座っているので身長は分からないが、とにかく大きい。もしかしたら、2mはあるのではないだろうか。体格は、そうゴリラに似ている。体毛のない、青紫色のゴリラ。
そのゴリラがこちらに背を向けて何かを必死に食べていた・・・
俺は瞬時に理解した・・・
美咲を食っているのだと・・・
視野を広げてみると、なるほど。ゴリラの横には美咲の足らしきものが転がっている。
ゴリラはまだこちらには気づいてはいない。今なら逃げ切れる可能性はある。
だが、今逃げて何になる?家族全員を失ったんだぞ。なんだこのゴリラは。ふざけてやがる。
いろいろな感情が渦巻いて、そして恐怖から怒りへと変わっていった。
馬鹿野郎!!
次の瞬間、俺はゴリラの後頭部に向かって思いっきり回し蹴りを当てた。
ぐちゃっと変な音がした。
ゴリラは予想に反して、ものすごく軟らかかったのだ。俺の右足がゴリラの後頭部に食い込んだ。
と、次の瞬間、俺の脚はゴリラの手に捕まっていた。
予想外の速さだった。
ゴリラの右腕がピクリと動いた瞬間、もう俺の右足はゴリラの手の中にあった。
「がっ・・・がぁぁぁぁぁ!」
メキメキと俺の右足の骨が砕ける音とともに、激痛が走った。
そして、ふと体が軽くなったと感じた瞬間、俺は宙に飛んでいた。
ぐちゃっと何かがつぶれるような音が聞こえて、俺の意識は暗転した・・・