第八話
僕と美咲は一緒に空を飛んでいた。横に並んだり、上下で向かい合ったりして遊ぶ。青空を見ながら色々話す。誰もいない、僕らだけの場所。
朝起きると、美咲は既に目を覚ましていて僕の寝顔を見ていた。「おはよう」と言う。「うん、おはよう」と美咲が返事して、起き上がる。昨日飛んだ記憶と、前に見た飛んでいる美咲とをコラージュした夢だったようだ。寝ている時に見る夢は願望とか不安とかを表現していることがあるらしい。さっきのはどちらでもないかな、と思った。僕はもう飛べなくてもいいと思っている。
「いてて」起き上がろうとするが、腕とか腰とか、体中が痛い。頭もだ。「大丈夫?」とエプロンを着けた美咲が寄ってくる。「昨日無茶しすぎたみたい」と言うと「ごめんね」と謝ってくる。「いや、そのうち治るからたぶん大丈夫」と言ってどうにか体を起こす。「今日はゆっくり寝ててよ」と言われる。「うん、そうだね。じゃあご飯食べたら」いつも食べている物をとっとと入れてくれと腹が騒いでいる。「じゃあ、そのまま待っててね」と美咲はキッチンへ向かった。
ちょっと無理して僕の携帯端末を引き寄せる。珍しくニュースのチェックなどしてみる。もう美咲は怒らないだろうから、こういうことをして話題を探してみるのも面白そうだったのだ。「うわ」と声が出てしまう。いきなり大当たりを見つけてしまった。ニュースの画像に見たことのある顔が二つ。整った顔の小学生と狼の顔をした魔法使い。「天才魔法少女、狼男を撃退」なんて文がある。きっとこれをきっかけに人気がさらに上がるのだろう。あの子が昨日あそこにいた理由がなんとなくわかってしまった。世界の命運を分ける戦いで小学生を活躍させないといけないなんて、須山さんや遠藤さんは相当苦労したことだろう。そんな二人の名前は載っていない。猫耳の人も話題になっていない。目立とうと思えばそこそこ人気出るだろうから、あえてしていないのだろう。
テーブルをベッドの傍に寄せて、美咲は朝食を食べさせてくれようとしたがそれは断って、一緒に食べることにした。動かす度に痛むけれどパンくらいなら持っても大丈夫だ。さっきのニュースのことを話す。「やっぱり亜紀さんも捕まっちゃったのかなあ」と美咲は言った。「そこらへん明記されてないけど、逃がしてたらこんな報道されてないんじゃないかな」と言う。悪い人とはいえ知り合い。悲しむだろうか、と思ったが「へえ、須山さんたちって凄いんだね」と感心していた。そして「狼男の人見たでしょ?あの人が初めて魔法でモンスターになった人らしいんだけど、魔法でモンスター化した時に新しい魔法が使えるようになったんだって。で、これはいい、って思ったらしくて、凄く強い魔法使いを作ってみようってことで亜紀さんがあの姿になったんだけど、亜紀さん十種類くらい魔法使えるらしいよ」と話した。十種類も使えるとなればもう天才の域だ。
「もしかしたら本当に天才魔法少女なのかもな」と僕は言った。ニュースを表示している僕の携帯端末を見た美咲が「でもこの子、昨日見た時と印象違うね」と言った。「あの時は殺気が凄かったからなあ。その写真の時は芸能人としての表情じゃないのかな」と言う。「この子の杖、いかつかったよねえ」と美咲が笑う。「うん、魔法じゃなくて格闘で戦うのかと思った」そんなことまでできるようになったら天才魔法少女はいよいよ手が付けられなくなるのだろう。将来が期待できる。
腕がぷるぷると痛みで震えるのを我慢しながら紅茶を飲む。それに気付いた美咲が「大丈夫?」と立ち上がろうとするのを「大丈夫大丈夫」と制する。痛いのに耐える覚悟をしてからぐいっと飲み干す。そして手を合わせた。「ごちそうさま」
美咲が食器を台所に運ぶ。僕は美咲の言葉に甘えて横になった。眠気が来るのであれば、いつまでも寝ていたい。動くとちくちく痛むのは、辛くはないが鬱陶しい。こんな体になった代わりに得られたものは大きい。僕らの関係が初期化されることはなかった。魔法を使わなくても人に好きになってもらうことができた。嬉しい。皿を洗うために流れる水の音がこの部屋から寂しさを取り払ってくれる。目を瞑っても彼女がそこにいるとわかる。
食器も水も大人しくなっても、彼女の足音が聞こえる。目を開けるとエプロンを外した美咲。その顔が近付いて、にんまりとする。「マッサージしてあげようか」と彼女は言った。「できるの?」と聞くと「いや、なんとなくで」と両手の指をくにくにと動かした。「じゃあなんとなくでお願い」と返すと「オッケー」と彼女は布団を剥がして僕の腕を取った。彼女の指がぐにぐにと押してくる。乱雑だけれども、時々気持ちいい瞬間がある。「どう?」と聞いてくる。「時々当たりが来るね」と答えると「じゃあ時々外れを引くかもね」と言ってきた。
たぶん外れとはやけに痛かった時のことだろう。当たりと同じくらいそれがあった後に、美咲はメイド服に着替えて「それじゃあお買い物行ってくるね」と言った。痛いのを我慢してでも外出するような気力は無く「行ってらっしゃい」と言う。「ゆっくり休んでね」と言い残して彼女は外へ行った。コスプレ街と呼ばれるこの地域には天井がある。でもたぶんいい天気だ。今の彼女はメイドさんだが、僕はご主人様だとは限らない。不純なものが消えれば天井の下でも明るく見える。もう空はどうでもいい。今でも僕にとっては夢の象徴だ。本来人間は飛べる生き物ではないのだから。けれど、僕は一度飛ぶことができたし、大切なものはもう掴むことができた。だから僕はもういい。たぶん次は美咲の番だから、そのために空を一人分でも広くしておいた方がいい。誰かが気持ちよく夢を叶えるのに、もう僕の魔法はいらないはずだ。だから僕はもう空を見ているだけでいい。
夢の中、小学生の頃のあの子が僕を睨んでいた。今度は銃を持っていないようだと僕は夢の中で安心していた。例の台詞も出てこないまま、僕の視界は真っ暗になった。目が覚める。メイド服の美咲が帰ってきていた。トートバッグから買ってきた物を冷蔵庫に入れているようで、がたごとと音がしている。「おかえり」と言うと「おはよう」と返ってきた。どうにもできない失敗だってこの世には存在する。ごめん、と夢の中で見た少女に心の中で唱えた。誰かの心が彼女を癒してくれているようにと祈るしかない。仕事で関わった人たちもどうなっているだろう。僕のせいで死んでしまった人もいると踏んでいる。これまでの人間にはできないことを実現してくれる魔法。だけど何もかもを解決してはくれない。償うことはできない。ただもう二度と悲惨なことにならないで生きていける自信がついた。あの夢に銃も弾のような言葉も出てこなかったのは許されたからじゃなくて、自分を信頼できるようになったからなのだろう。
「どうしたの?」と美咲が僕の顔を覗いてきた。「昔のことを思い出してた」と言う。何を思い出していたのかわかる程、悲しそうな顔をしていたのだろうか。美咲は「大丈夫だよ。健太が間違えた分、私がいっぱい人を救うから」と言って慰めてきた。そんなことで僕の間違いが無かったことにされるわけがない。そうわかっていても「うん、ありがとう」と言ってしまう。嬉しいから。魔法よりも誰かの言葉の方がずっと人の心を動かすものなのだ。魔法を捨てて生きていく僕はそう信じて生きていこう。
美咲が「お昼ご飯作るね」と言う。もう昼か。時間が過ぎるのが早い。よくよく考えれば起きるのが遅かったからだ。いつもより遅い朝食だったにも関わらずお腹はもう空いている。来るべき昼食に向けて胃がスタンバイしているようだった。美咲は「サンドイッチなら簡単に食べられるかな?」と聞いてきて、何をしても腕は痛いのだけど、今度こそ美咲が当たりを引くと信じて「うん、たぶんいける」と答えた。
今度こそベッドから出るぞ、と思ったのだが美咲に止められてしまう。痛いだけだから部屋の中をうろつくくらいなら大丈夫だ。なので「過保護だ」と反抗すると「ぐだぐだ言うと手錠とかで動けなくするよ」と脅された。「一日中寝ていろとか、なんか病人みたいで落ち着かないんだけど」と言うと、彼女の表情の中で電球が点ったのが見えた。「ナースのコスプレしたらそれっぽいね」と言い、今から買ってきた方がいいかな、なんてことを言う。元気だ。過剰に活発になったらこの前みたいになってしまいそうだから「いや、今度でいいんじゃないかな」とブレーキになる。「じゃあ今度一緒にいいの探そうね」という美咲の素敵な提案には頷いた。
こちらはベッドの上で美咲はメイド服を着ているから、十分に看病されているような雰囲気が出ている昼食だった。サンドイッチに手を伸ばす度に少し痛むのだけど、それにも段々と慣れていった。
美咲はアニメを見ようと提案してきて、画面の方を向いた僕の横に座った。ベッドの上で二人密着して座っている。メイドさんと世話をされている人という構図に慣れてきたというのに、急に恋人らしい雰囲気になって、それでも彼女の格好はメイドさん。ちぐはぐな感じにちょっとだけ翻弄されてしまう。
「大丈夫?痛くない?」と録画したものを再生する前に彼女は僕に聞いて「辛かったらこっちにもたれてきていいよ」と言ってくる。「痛くないけどもたれたい」と言うと、ふふ、と美咲は笑った。「膝枕でもいい」とさらに要望を出してみると「好きなようにしていいよ」と言ってくれた。だからほんの少しだけ体重を預けることにした。約二十分間のどきどきが始まった。
アニメが終わって「面白かった」と美咲が言う。「うん、よかった」と僕も言う。とてもよかった。美咲はそれに「どっちが?」と、あなたの意を汲み取っていますよと得意気な様子で聞いてきた。僕はそれに「両方共」と答える。美咲は「じゃあもうちょっとこうしていようか」と優しく言ってきた。
「私、ちゃんと魔法使いとして生きていけるのかなあ」と負傷している僕を支えている彼女が言った。「大丈夫でしょ。美咲の魔法結構役に立つと思うよ。悪さした連中を捕まえるために引っ張りだこだよ」しぶとい連中はいるだろうから、逃げられなくしてしまえる彼女の魔法はサポート役に置いておきたいはず。そうでなかったとしても、須山さんがどうにか役に立つよう苦労してくれることだろう。そんなことを話しながら、思い付いたので「手錠作る魔法だから、もしかしたら警察の一日署長とかやれるかもね」と言う。
「そっか。大丈夫なのかな」と美咲の頬が柔らかくなる。「ほら、例えば須山さんなんて魔法使って捕まえようとしても、昏倒させるくらいしか確実な方法無いし。需要あるよ」と美咲を安心させる。
「じゃあまず魔法使うのに慣れないといけないね」と美咲。「ああ、それはそうだね。すぐ使えた方が便利だ」と言うと美咲は「難しいんだよねえ、それが」と眉根を寄せた。「亜紀さんに、美咲ちゃんの嫉妬が魔法になる、って言われて使えるようになったんだよね。だから今、この前みたく牢屋みたいなの作ろうと思ってもできないかも」と言う。
「手錠のは?」と、人を捕まえるならあれくらいで十分だろうから聞くと美咲は「どうだろうねえ」と首をかしげた。途端に僕の腕が動く。いに濁点を付けたような短い悲鳴を上げてしまった。手錠に拘束される。「使えるじゃんか」と痛かった分低い声で言ったのだが「いやいや、たまたま成功しただけかもよ」と美咲は回避しながら足の方も拘束してきた。わざとやっているな、とわかって溜め息が出た。「絶好調じゃないですか」
美咲はまじまじと自分が魔法で出した枷を見て「何だかどきどきするね」と言ってきた。「されても困るんですけど」と数日前のプレイを思い出してげんなりしている僕に関わらず「あ」と何かを思い付いたようで手錠が消えた。「ちょっと横になって」と言いつつ有無を言わさず僕を横にさせる。そしてまた腕が勝手に動く。ばんざいの形にさせられる。手錠と、それからベッドの頭の方向に鉄っぽい棒が現れた。「凄い」と美咲は大喜びしていた。手錠の鎖と腕とで輪を作った形になっていて、その中に彼女の出した棒がある。身動きが取れない状況にさせられてしまったのだ。「いいね、これいいね」と美咲は興奮していた。写真を何枚か撮られる。「頼むから遊ばないでくれ」と情けない格好で言うしかなかった。
面白いから、という理由だけ残して彼女は僕をしばらくそのままにしていた。「そろそろ辛くなってきたんですけど」と言うと「はいはい」と本を読む片手間で作った物を消した。「美咲の魔法は遊べていいよなあ」と文句を言う。こっちもやろうと思えばできるのだろうが、他人で人形遊びをしているような感じがあって面白くない。美咲は「キスをしろ、くらいならやってもいいよ」と余裕を見せてくる。「やらないから」と返す。してほしかったら素直に言うよ、と思った。
今日はよく寝る日だ。美咲が夕飯を作っている間、寝てしまったようだった。「ご飯出来たよ」という声が真っ暗な所から僕を引っ張り上げた。メイド服ではなくなっている美咲に「おはよう」と言いながら食べ物の匂いに気を取られる。いつの間にか部屋にソースの匂いが漂っている。「今日は皆大好き天ぷらだよ」と美咲が言う。大好きだ。起き上がる。「あ、無理しないで」と言われるが、あまり痛くない。「なんかもう大丈夫みたい」かなり慣れたのか寝ていてよくなったのか。どっちでもいい。「さあ早く食べよう」と手を合わせる僕に美咲は呆れた顔を見せた。
食べている最中に「昨日はありがとね」と改まった感じで言われる。天ぷらもそれを言うために作ったのだろうか。「いやいや」どういたしましてと言うのもどこか違うような気がして、色々考えた末に「こちらこそありがとう」と言った。何がありがとうだったのか、自分でもよくわからないのだがそれが一番近いような気がするのは確かだった。「いやいやいやいや」と美咲は困っているようだった。
食べ終わった後、入浴の件について「一人で大丈夫?」と美咲が聞いてきた。それに、過保護だなあと思いつつ「大丈夫大丈夫」と返す。大事にしてくれるのはいいし甘えたくなるけれど、入浴まで一緒にしてしまうのは怖い。これから幸せを積み重ねるためにやっとのことで用意した土台を崩してしまいそうだ。しばらく自重したい。そういうわけで大丈夫でなくても一人で入る。
夜はどんどん深くなっていく。時間は大切な時間を切り取って止まってくれはしない。青空が好きでも夜空が好きでも、時間が僕らから好きなものを遠ざけていくように思えてしまう。美咲が夢を叶えられず焦ったように。しかし僕の目から見える空が鮮やかなものでなくなっても、飴玉を溶かしていくような生活が終わりまで続いていくのだと信じることができた。ずっと前から空にあった綺麗なものはもうここにあって、だからこの天井の街でも明るく生きていける。また明日それを見つめるために僕は「おやすみ」と彼女に言って今日を閉じた。