第六話
朝、目が覚めた時に新しく気を付けるようになったことがある。無闇に動いて美咲を起こさないようにすることだ。右手首の手錠は美咲の左手首の手錠と繋がっている。彼女の魔法は寝ている間でも持続するようだ。魔力を使うのは束縛するまでと解放する時だけなのかもしれない。下手に動くと彼女の体を揺さぶることになってしまう。朝から慎重さが求められる。ふと、色々と酷いことをされているのだから、事故を装って彼女の腕に思い切り負担をかけたらどうだろうと思ってしまう。思い付いても実行に移してはいけないと自分を抑える。こんなことを考えるなんて。かなりストレスが溜まっているのを実感した。当然か。
美咲が魔法を手に入れたことと大学が休みだということが重なって、これまで以上に酷い日々を送ることになった。美咲が外出する時には魔法の手錠と足錠がはめられた。さらに自分のことを求めるようにと性行為を途中までしてから、絶頂する前に身動きが取れないようにして欲望のやり場を無くしてから外出することもあった。つい昨日のことだ。しかも萎えないように押収していた映像のディスクを再生して、帰ってきた時に「どうしてほしい?」とわざとらしく聞いてくるのだった。
どんどん彼女にとって都合のいい人間にしようと試みているのがわかる。しかしどうにかできない。やり方が間違っているものの彼女が愛情を向けてくれているのは確かだから、何もかも諦めてしまうのもよさそうだった。いつか彼女の言動が柔らかくなると信じて身を任せてしまおうか。そういうことを考えていると美咲が目を覚ました。
「おはよう」と美咲は笑顔だ。この数日はとても上機嫌。人生の何もかもが上手くいっているという表情だ。「おはよう」と笑顔で返す。上手く笑顔を作れるようになってきたと思う。「うん、じゃあ外してあげるね」と手錠が消える。「朝ご飯作るね」とこの街の天井の照明くらい眩しい笑顔を見せてくる。僕は溜め息も作った表情の奥に隠さなければならなかった。
朝食を食べ終えると、美咲は壁の外の行く時の服に着替えて、僕もそういう時の格好をさせられた。今日も外出するのかな、と思う。ここ最近毎日外に行っている。そしてどういうわけか僕も一緒に行っていいらしい。そう思ったのだが「ごめんね」と彼女が言って、僕の腕は勝手に動き出した。その瞬間びっくりしたのだけれども、手錠が現れる頃には慣れているのもあって、またこれか、とげんなりする。一体何をしようとしているのか。しかし美咲は「今日亜紀さん来るんだけど、一応手錠しとけって言われたんだ」と言った。亜紀さん。やはりあの悪魔が噂の魔物なのだろうか。須山さんに連絡しようにも携帯端末は没収されてしまっている。もしかしたら魔法を使うことを決心しなければならないのかも。美咲には間違った魔法の使い方をさせるわけにはいかない。今も間違っているけれど、もっと多くの人間を巻き込むようなことなら絶対に止めないと。
そして彼女が予告した通り、亜紀さんが来た。美咲は亜紀さんを部屋に招き入れる。「やあ」と手錠に奇異の視線を向けることなく挨拶される。僕は「どうも」と会釈する。亜紀さんは猫耳のあるパーカーを着ていて、露出度が下がっていると同時に印象的だった羽と尻尾も見えなくなっていた。須山さんたちに羽と尻尾以外の特徴を全然伝えていなかったことを思い出す。眼鏡とか身長とかも言わなければ駄目だった。これでは見つからないかもしれない。
亜紀さんはパーカーを脱いで、羽と尻尾を出した。「ああ、疲れたあ。いちいち隠さないといけないから大変だよ」と羽と尻尾をストレッチのように伸ばしていた。そして尻尾がぴくぴく動く。亜紀さんは目を閉じながら「やっぱ似てるねえ」と言った。「やった、似てるって」と美咲は喜ぶが、一体何が似ているのか、きょとんとするしかない。「あのね、亜紀さんの尻尾は人の魔法がどんな感じのものなのかわかるんだよ」と解説される。何でも教えてくれそうだ。警戒して喋らないでおけよ、と思うがこちらからしたらありがたいので積極的に質問することにした。「どんな感じかわかるってどういうこと?」と言う。これで須山さんに伝える手段があればいいのだが。美咲に聞いたつもりだったのだが「雰囲気がわかるのよ」と亜紀さんが答えた。あんたまで喋るのかよ、と思わずにはいられなかった。「攻撃できそうとか、サポートタイプだとか。そんな感じでなんとなくね。君たちの魔法は我がままな感じ」と言った。
我がままな魔法。そう言われたのは初めてだったが、的確な表現だと思った。僕と美咲の魔法は、自分が満足するために他人に向けて使うものだ。束縛するか操るかの違い。
「それじゃあ作戦の確認をしちゃおうか」と陽気な声で亜紀さんは言った。そして「外だと聞かれちゃって、ご破算になっちゃうかもしれないしねえ」と大仰に言う。お前はもはや戦力外、と煽られているように聞こえる。腹が立つ。つい眉を歪めた僕の方を見て「それにできれば君にも手伝ってもらいたいし」と悪魔は言った。それが目当てか。先日の遠藤さんを思い出した。それから小学生の頃にやった仕事も。
魔法を使うべきかどうか。悩んでいる最中にちらつくのは大嫌いという言葉。小学生の時に好きだった子がいた。僕は魔法を使って、その子の意思を操った。僕のことが大好きでたまらずキスをしたくなる。そういう風に。当時はそれこそが愛情表現の最上位だと思っていた。そうすればゴールだと妄信していた。どんな行為をしたところで、人間関係が固定されるわけではない。時間が経てば変わっていくもの。魔法の効果が切れた時にもその子が同じ気持ちでいるはずがないと、当時の自分には想像できなかったのだ。魔法から解放されたその子は泣き喚き、魔法で操られたことを知って例の言葉を叫んだ。それから一度も話をしていない。あの言葉を聞いてからやっと気付いたのだ。人間の意思は他人が勝手に操っていいものではないということに。
「健太君にもわかりやすく説明するとね、私たちは自分たちの生きる世界をRPGみたいに変えようとしているんだ」と亜紀さんは、腕を広げるみたく、悪魔の羽をぶわっと広げて主張した。「今の老人たちが私たちくらいの時は、皆魔法なんて信じてなかった。だけど今は魔法がある。私たちはフィクションでしかなかった魔法使いになれる」そこまではまだ大人しかった語調が「なのに」と言って激情が含まれてくる。感情がそこに表れやすいのか、尻尾も激しく動いている。語りかけるようでありながら、僕を睨んでいる目のように刺々しく「この世界には魔王もモンスターも勇者もいない。感動の大冒険はどこにも無い。魔法使いはこれまであった仕事のお手伝いばかりしている。悪用してもせいぜい空き巣や強盗。こんな閉塞感の強い世界が正しい姿であるはずがない」と言う。「だから私たちは世界をファンタジーのような世界に変えるために活動してきた。でもモンスターを一匹や二匹作ったところでどうにもならない。悪魔の姿を手に入れても魔王にはなれない」尻尾がへなり、と下を向いた。後付の器官なのに感情を過剰に表現している。それが彼女たちの求めている世界の一部分を表しているように見えた。アニメでアホ毛が感情によってぴこぴこ動くみたいに。きっとそういうものを求めているのだろう。
「でも彼女のおかげで私たちの夢が実現する」と亜紀さんは美咲の方を見た。美咲も誇らしそうな顔をしている。「私たちはモンスターを作ったり、人間を悪魔に変えるくらいのことはできる。だから魔力を集めれば、そういうもので満ちた世界が作れる。私たちは昨日それを完成させた」それは地球儀みたいなもので、一つの部屋に置いておける大きさだと言う。「そして今日、人類全員をその地球儀の中に閉じ込める」と言って亜紀さんはにやりと笑った。そして彼女は魔法の力で作り物の世界でも人間が生きているように世界を管理していき、さらには魔王の軍も作るのだ、と計画を楽しそうに語った。馬鹿げている、と思った。須山さんは、規模が小さいがやろうとしていることは大きい、と言っていた。でかすぎる。それに、たまたま美咲が人を束縛する魔法を得られたから計画が成立しているようなもので、結構運任せなところがある。少人数で世界を変えるだけの魔力を溜め込みながら実現できる魔法が手に入るのを待つ。そういうことをしてきたのだろう。その努力をもっとまともなことに使え、と言いたくなるのを抑えた。言葉でどうにかなる相手じゃないと感じていた。それに言っていることがよくわかるから、怒気が理性に勝らなかった。この世は魔法が使えてもままならないのだ。
「それで君にも手伝ってほしいんだよね。厄介な連中が来た時の足止めとか、それか美咲ちゃんに魔力を提供するか」貢献してくれたら二人のために新しい世界に城を作ってあげたりしちゃうよ、と亜紀さんは言ってくる。「しません」と断って「美咲もそんなことをしちゃ駄目だ」と言う。人類全員を巻き込むなんて恐ろしいことをしてはいけない。そんなことをした後で、もしかして自分のやったことは間違っていたのでは、と疑問を抱いてしまったら途方も無い苦しみに襲われる。それは彼女に背負えるようなものではない。壊れてしまう。きっとそのことが見えていないのだろう。美咲は「私はやるよ」と言った。どうして、と聞く。彼女はまだ言葉で止められるかもしれない。「だって今の私なら世界を変えられる」とまるでアニメの主人公のように希望の満ちた表情で言う。そして「美咲ちゃん、そろそろ行こうか」と亜紀が言うと、わかりました、と答えてから美咲は「ごめんね。ちょっとの間だけだから我慢してね」と言った。僕の周囲に鉄格子が作られた。「世界を変えたら、迎えに行くからね」と言って、彼女は背中を向けた。魔法を使わなければ。でも何をさせればいい。命令に迷っているうちにドアが閉められ、鍵も掛けられた。
やってしまった。ずっと使わないように、と気を付けてきたせいで、どうしてもという時に躊躇ってしまった。人の意思を思い通りにする魔法は、他人の人生を歪めてしまいかねない。だから使いたくないと思うことはいい。けれども、今彼女は億という単位の人間の人生を歪めようとしているのだ。天秤で量れるようなものではないのかもしれないが、そんなとんでもない汚点を彼女が作ってしまう前に、少量の泥を自分が被るべきだった。いや、相手が美咲だからこそ止めてあげたかったのに。自分の甘さを責める。
鉄格子。見た目は鉄だが魔法で作られているから意外と脆いという可能性は。試しに何度か蹴ってみる。感触は鉄というより石だったが、何度蹴っても壊せる気がしない。隙間から抜け出すこともできない。素手で穴は掘れるだろうか。できても、間に合わないだろう。
この中で須山さんたちが解決してくれるのを待つ気は無い。絶対に自分が行かなくてはならない。須山さんたちに任せたら美咲ごと一網打尽にされてしまうだろう。どうにかして彼女を連れ出さねばならない。それも彼女が何らかの事を起こす前に。例えば僕以外の人間を拘束してしまえば、その罪で須山さんたちは追ってくるかもしれない。
魔法を使うしかない。怖いけれど、他人を操ることを覚悟する。神様というものがいるかどうか知らないけれど、いるのなら許してくれ。相手を目視していないと精度が低くなってしまうが贅沢は言えない。音が聞こえる範囲で足音などが聞こえたら、その人を操ってどうにかしよう。どう動かせばいいだろう。ドアを開けさせて、この鉄格子も壊させるのは無茶か。携帯端末を探させるか。そもそもドアを開けること自体が無茶だろうか。その人の携帯端末で須山さんに連絡させる。これならどうにか。メールアドレスならなんとか思い出せる。
この作戦でいこうと決めた矢先に足音がした。ドアの向こう。ここの住人が外出したのか。さて操ろうか。しかし妙にどきどきして、意識が乱れる。こんな時でもまだ小学生の頃の記憶がちらついてしまう。しっかりしろ、と喝を入れると同時に足音が止む。最後の足音はこのドアの前。不審に思った直後に、がちゃりと鍵が開いた。
女性が入ってきた。猫耳を着けたその人は「いきなり失礼しますにゃん」と言って、猫耳を動かした。見たことがある。ティッシュ配りをしていた人だ。四方の鉄格子に閉じ込められた僕を見て「わお」と驚く。律儀に猫耳もぴんと上を向いた。どうして、という疑問がたくさんあったが、その瞬間だけ面倒な人だと強く思った。「物騒な感じだにゃん。でも安心するにゃん。すぐ助けるにゃん」とにゃんにゃん騒がしいのが急に黙る。すると目の前にある鉄らしき棒が急に曲がりだした。平仮名のくの字に曲がりつつあったのが、負荷に耐え切れなくなって折れて、落ちる。人が脱走できそうなスペースが生まれた。そして手錠の鎖もその力が引きちぎってくれた。しかし手錠がブレスレットみたいに残っている。「そっちは開け方わからないから、これでごめんね」と彼女は言った。
感謝の言葉を述べてから僕は「あなたも魔法使いだったんですね」と話しかける。変な格好をしているが、きっと連盟側の人、須山さんの仲間だ。「君と連絡が取れないって須山さんが騒いでたから、来てみたんだにゃん」と言って、元気に猫耳を起きたり寝たりさせる。そして「さっきのが幻想の悪いやつらだにゃ?」と聞いてきた。「いえ片方だけです」と断言すると、彼女は猫耳を停止させて「そっか。君の彼女だもんにゃ。庇いたいなら、何かしないうちにとっとと捕まえることだにゃん」と言った。そうすれば見逃してくれるということらしい。元からそうするつもりだ。こくりと頷いて心を燃やした。
猫耳の人は僕に現在の状況を教えてくれた。今は尾行をしていて、捕まえようというつもりは無いらしい。「できるだけたくさん捕まえようってことで、機会を狙ってるみたいだにゃ」と説明される。拠点にしている場所に入ってからということらしい。そして溜め息をついて「遠藤さんだから大丈夫だとは思うけど、捕まえられるのにそうしないのは落ち着かないにゃん」と漏らした。「駅に行きましょう」と言う。「駅?」猫耳もぴくり、と動いた。「どうしてだにゃん?」と聞かれたから、美咲が壁の外に行く時の服を着ていて、自分もそういう格好をさせられたことを言う。「あの服なら、たぶんコスプレ街から出るんじゃないかと」
「でかしたにゃん」と言って猫耳の人は歩き出す。僕もそれに並ぶ。「須山さんと連絡取れます?」と聞く。「今から連絡するところだにゃん」と携帯端末に触れている。「それなら、魔法のレンタルをさせてくれって伝えといてください」と言うと怪訝な顔を一瞬だけしたがすぐに「わかったにゃん」と言って、いくらか入力した後にメールを送信してくれた。
駅に向かって走る。亜紀さんは魔力を知覚できるようだから、近付きすぎることがないように周囲をよく見る余裕を持ちながら。今の二人の格好はコスプレ街では目立つ。この街はコスプレをしている人で溢れている。皆楽しそうだ。それは変えているのが自分だからだ。彼女たちがやろうとしているのは、それとは全然違う。他人まで変えるようなことはしてはいけない。そんなことをすれば他人を不幸にしてしまうだけだ。愛している相手から与えられる愛情が、自分が相手を歪めて作り上げたものでしかなかったら、空しいだけだ。
須山さんと合流する。亜紀さんを追うのは尾行している人に任せて、感知されないように遠くを歩きながら話す。「レンタルってお前何をするつもりだ?」と聞かれる。「あなたたちが動く前に、美咲を助けます。彼女に魔法の悪用なんかさせません」と答える。猫耳の人が「私の魔法も貸そうかにゃん?触れないでも物を動かせるのにゃ。念力だにゃ」と言われるが断る。「飛ぶやつだけで十分です」
「飛ぶやつだけって戦闘になったらどうするんだ」と須山さんに言われる。「あくまで僕は民間人なんで、戦闘は全力で避けます」素人がレンタルした魔法で戦っても勝てないだろう。それに魔法はあまり使いたくない。「どうしても駄目そうだったら上手く操ります」と言っておく。複数を相手にするのはきついけど、タイマンなら先手を取った時点で勝てる。それでも須山さんは納得できない様子だった。そして「戦闘用の魔法も貸す。これはサービスだ」と言われる。拒否できないようだった。
「やつらの狙い、本人から聞きました」と須山さんに言う。そうか、と言って数秒置いてから、どう思った、と聞いてきた。「他人を巻き込むのは許せません。だけど気持ちはわからないでもないです」須山さんは溜め息混じりに「そうなんだよなあ」と言った。そして「そりゃゲームの世界には憧れるわな」と言うのに、猫耳の人も頷いている。「だからやつらの目的を知って寝返るやつもいるんだわ。そのせいであまりたくさんの人員を割いてもらえないってのもあるみたいだ」と苦労話が始まる。「相手のやろうとしていることを知らずに参加させられるやつもいるけど、まあ少ない」と須山さん。それに続けるようにして猫耳の人が「おかげでメンバーは頭が固い人と重病人ばっかりだにゃん」と言って溜め息をつく。重病人。オタクの中でも趣味にのめり込みすぎた人のことを指すらしい。古くからあるらしいが久々に聞いた。たぶんこの二人はそっち側のメンバーなのだろう。頭固い人、と言われれば口を真一文字に結んだ遠藤さんの顔が思い浮かぶ。
「須山さんたちはどうして向こうには行かないんですか?」と聞く。重度のオタクだからゲームの世界に興味が無い、というのは変だと思った。「だってゲームの世界なんかに行ったら、ゲームで遊べなさそうじゃねえか。アニメも見れるかどうかわからん」と須山さんは返してきた。猫耳の人もうんうんと強く頷いている。なるほど、重病人。よく理解できた。