第五話
朝起きると美咲はまだ寝ていた。最近美咲の笑顔を見る回数が減った気がする。原因ははっきりとしている。魔法使いになれないことが彼女のストレスになって、それがどんどん降り積もって重くなっていっている。ストレスが今にも心の屋根を壊してしまいそうなのだ。
夏休みになって僕の時間も取れるようになり、この休みが美咲を魔法使いにするチャンスだと思って、積極的に須山さんと連絡を取った。須山さんたちはまだ悪巧みをしている連中を見つけられないらしい。時間かかりすぎなのでは、と指摘するのだが「規模が小さいくせにやろうとしていることは大きいんだ、あいつら。だからその分俺たちに見つからないように静かに準備を進めようとしてんだ。最後の一手を打つまでは波風を立たせないって感じでな」と須山さんは自分たちに非が無いことをアピールしていた。そういうわけで三日に一時間くらいのペースで魔法を使う練習をしていた。
最初は楽しんでいた美咲だったが、二回目三回目とレンタルの回数を重ねる度に表情がどんよりとしてきていた。レンタルする度に自分の魔法が開花しなくて落ち込んでいたが、落ち込みようがどんどん激しくなっていくのだった。そして昨日、四回目の時には既に楽しいとは言わなくなり、帰る時には溜め息ばかり。そして「やっぱ私には才能が無いのかな」と呟くのだった。どうにかして励まそうと色々な言葉を発してみるが彼女は「もうすぐ二十歳だもんね。もう無理なのかもね」などとネガティブになる言葉をそれ以上のペースで作っていた。日差しが強いのは感じるが、壁の外に出ても彼女の暗雲のような表情に悩まされて、もう空がどんな色をしていたか覚えていない。青の印象が強いけれども、僕らの心象的には灰色の方がふさわしい気がする。彼女が飛んでいた空はどっちだっただろうか。
どうにかしなければ、と思う。ああ、久々にこのフレーズが頭の中に出てきた。そう一瞬感動してしまうが、頭を振る。何度も繰り返し魔法をレンタルしていれば魔法使いになれるとは限らない。どんなに頑張ったところで努力が報われるかどうかわからない。もし報われなかったら何も手元には残らない。日に日に薄れていくであろう記憶だけだ。そのことを美咲は恐れている。そこまでわかっているけれども、彼女を魔法使いにするためにやれることは何も無いのだ。もし彼女の心が折れて、それでもやはり諦めきれず、少し前までの彼女に戻ってしまった時、僕には何ができるのだろう。
ぐう、と腹の虫が鳴ってしまった。どきりとして美咲を見る。しかし美咲は起きない。よかった。空腹の音で起こしてしまったら申し訳無い。ここは彼女が寝ている間に僕が朝食を、と思ったが用意してもまだ起きないで、彼女が目を覚ました頃にはもうとっくに冷めていた、なんてことになったら悲惨だ。慣れないことはするもんじゃない。腹の虫がわがままを言わないように気を付けながら美咲のこれからについて考えるしかない。
魔法使いになれなくて、沈んでしまった時にどうしたら美咲はおかしな方向に走らずにいられるだろう。またレンタルする気になるのを待つか?しかし年を取っていけばいくだけ彼女は未練ばかり積み重ねて、やがて行動しなくなってしまうだろう。魔法使いなんて不確かな道はやめて別の路線に誘導するのか。例えば大学。でも魔法のレンタル以上に長続きしなそうだ。高校三年生の時に言っていた。「全然興味無いんだけど、親がとりあえず行っとけってさ」と。そして彼女は五月病に絡め取られるようにして引きこもったのだ。今更行ったところで彼女のやる気は出そうにない。僕が彼女にしてやれること。考えていると、結婚という言葉が出てきた。どうにか、過度に依存する必要な無いのだということを伝えながら結婚することで、依存するために無理をしようという気は無くなって健やかな美咲になってくれるのでは。でもそんな、王子様のキスによってお姫様は目を覚ましました、みたく綺麗に事が進んでくれるだろうか。それに彼女は本当にそれでいいのだろうか。それに罪悪感がある。本当に彼女のためを思うのであれば、僕と彼女はここまで親密になるべきではなかったのでは、と思ってしまって。
美咲が目を覚まして「おはよう」と言った。眠たそうに目をぱちぱち開いたり閉じたりしている。きっと僕が寝顔を見ながら、彼女との結婚式について想像を広げていただなんて思ってもいない。「ごめん、朝食作るね」と言ってベッドから出てキッチンへ向かう。結婚式をイメージする時、想像上の外は妙に明るい。日光がきらきらとしている感じ。その明るさとは全く無縁の、人工の光しか降らない朝だった。
起きてから段々ぼやけていた頭がはっきりとしてきて美咲はあっという間に無口になってしまった。「いただきます」と僕は普段通りに言ったのに、美咲の声があまりにも溜め息のように沈んでいたので空回りしているように聞こえてしまった。美咲は黙々と食べる。気まずい。何もしていないのに、咎められているような気分だった。
「ごちそうさま」とさっきより控えめに言って手を合わせるが、彼女は何も言わずに食器を片付け始める。素でそうなのか、わざとやっているのか、キッチンから大きな溜め息が聞こえてきた。きつい。こっちも溜め息をつきたくなるけれど、それをしたら彼女の機嫌が悪くなるかもしれなくてできない。
皿を洗って洗濯物を干すと、美咲はベッドに入って布団に包まった。壁の方を向いて視線を合わそうとしない。重症だ。夢の中に逃避する美咲をどうにか楽にしてやらないと大変なことになるとわかっているのだが、今はどう触れようとしても棘だらけの彼女に刺されてしまいそうだ。こちらに背を向けて布団をバリアのようにしている姿がハリネズミを思わせた。
美咲が寝ているうちに須山さんの都合のいい日時を聞いておく。どうしても諦めることができなくて、起き上がった美咲にレンタルをする日を決めようと「いつにしようか」と聞く。すると美咲は一瞬だけ眉をぴくりと動かしてから「行かない」と素っ気無く答えた。「えっと」これはまずいことになったな、とわかっているが一抹の希望のために確認する。「行かないってつまり?」すると今度は若干苛立ちのある声で「もうやらない」と吐き捨てた。やっぱり。一瞬で重苦しくなった空気。言わなければよかった。こういうのは苦手だ。何と言えばいいのかわからなかったが「うん、わかった」と素直に引き下がった。彼女が諦めるのを止める理由は無い。魔法使いになったっていいことは無いのだ。でもこの彼女の諦め方はもやもやする。そもそも本当に諦めているのか。むしろ前の状態に戻ってしまったような感があった。
美咲は棘のある語調で「買い物行ってくる」と言って、例のメイド服に身を包んで出かけていった。彼女の心象を掴めた代わりに僕は攻撃的な施錠の音を聞かされた。今日は誘われなかった。いつもは僕が外に行くのに、今日はドアを閉められて、まるでそれが僕と美咲を断絶しているように見える。スーパーがコスプレ街の中にあるから、例の黒い服を着なくてはいけないのだが、それでも彼女と一緒に買い物をするのは楽しいものだった。「嫌われちゃったなあ」と天井しか話し相手のいない室内で呟く。まるで敵みたい。結果的に彼女を刺激することになってしまったけれど、予測なんてできるわけがない。やるせない。「これが人生なんだな」と天井に語りかけたが返事は無かった。
この部屋に一人でいる、という珍しい状況に暇を持て余してしまう。美咲がいなくて寂しい、と昨日までの僕だったら思ったのだろう。今でもそれは感じている。しかし、彼女がずっとあの調子で固定されて依存を再開してしまったらこんなに安らかな時間はもう来ないのだろうから大事に使いたい、という気持ちもあった。それに加えて、今回のことが僕と美咲が別れるきっかけになってしまうのではないか、という不安もある。その結果どうすればいいかわからないで悩むばかりになってしまう。寂しい思いをしないようにどうにか彼女の機嫌を元通りにするよう考えるべきか、彼女が依存するようになった時の負担を軽減するために今のうちにやっておけることは無いか考えるべきか。別れるきっかけだとしたら、僕は何を考えればいいのだろう。あれ、と思考が数秒止まってしまった。
僕は彼女のことが好きだ。結婚したいと思うくらいに。それは確かだ。魔法のことを好ましく思っていない僕にとって、彼女みたく魔法のことを素晴らしいものだと思っている人は、まるで自分が失ってしまったものをしっかり持って生きているように見えるのだ。彼女のことを好ましいとか羨ましいとか思いながら行動をなるべく共にしようと付きまとっているうちに恋愛感情に変化した。そうやって過去のことを思い出しながら分析していると、罪悪感が浮上してくる。さっきのように、どうしても美咲が魔法使いになることを望んでしまうのは、その可能性を自分が高校生の美咲から奪ってしまったからだ。苦しさを逃そうと深く息を吐く。しかしどれだけ息を吐いても過去は微動だにせずのしかかってくる。
どうして美咲に恋してしまったのだろう。美咲が暗くなっているのを見ると、そんなことを考えてしまう。これまで僕が彼女にやってきたことがその表情を作っているのではないのか。高校生の時、僕らはよくデートしたものだった。遊園地だとか映画館だとか。長期休暇では一緒に勉強するために彼女の家にお邪魔したりもした。そうやって色々な理由を作っては彼女の傍にいるようにしていた。学校の帰りでも寄り道をして一秒でも長く一緒にいるようにしていた。楽しい恋愛、充実した日々。それらが全て失敗だったと振り返るとよくわかる。僕はそんな質の高い青春を演出することで、美咲を魔法から遠ざけようとしたのだ。魔法なんて使えてもどうしようもない。そう思って、もっといいものを与えようとしたつもりだった。本末転倒だ。僕がいいなと思っていたのは夢に向かおうとする彼女の姿だったはずなのに、どうでもいい餌をばら撒いて夢から目を離させてしまったのだから。本当は美咲と付き合えなくてもよかったのだと思う。魔法少女を夢見ている時の照れ笑いを気に入っていたのだから、その夢を潰してしまわないように好ましいクラスメイトに留めておけばよかったのだ。それなのに気を引こうとしてしまった。そして美咲も誘惑に乗ってしまった。もしかしたら、と言っても仕方ないのだろうけれども、ただ遠くから見ているだけでいたのなら彼女は魔法使いになれていたのではないかと思ってしまう。あるいは全力で手を貸すべきだった。付き合うことになっても、デートなんてせずに今みたいに須山さんから魔力をレンタルさせればよかった。それなのに自分が魔法を好いていないということにこだわって、彼女を魔法から遠ざけるために束縛してしまった。彼女の人生を歪めてしまったのではないだろうか。一緒だ。魔法を使っていないだけで、僕は小学生の時と同じ失敗をしている。
後悔しながら自分が積み重ねてしまったマイナスを一つ一つ数えていくのは簡単なことだ。重要な、そのマイナスをどう解消していくのかということは全く思い付かない。そして現実から目を背けるように昔の失敗を思い出しては、あんなことしなければよかった、と後悔して、一歩も進めない。そのことに気付いてまたこれからのことを考えようとしても頭は動かず。それを繰り返していた。どうにもならない。ただ時間が経てば経つ程自分のことが嫌いになっていくのみ。
目が覚める。いつの間にか寝ていた。ちゃんと考えるべきだったのに。自己嫌悪しながら時間を確認する。あれから二時間以上経っていた。それなのにこの部屋には僕だけしかいない。おかしいな、と思う。いつもならもう美咲が帰ってきているはずなのに。よっぽど苛立っているのだろうか。ただストレスを発散しているだけならいいのだけれど、何か大変なことに巻き込まれてはいないだろうかと不安になる。例えば須山さんたちが追っている魔物というのが、亜紀さんではなくて、ゲームでよく見るような襲い掛かってくるようなやつで、そいつが暴れているとか。まさかな、と思いながらも何か起きていればネットに情報が流れているだろうと携帯端末に手を伸ばしたところで、鍵が開いた。帰ってきた。よかった。
「おかえり」と言うと美咲は「ただいま」と言って笑顔を作った。妙に明るい返事と、過度ににこやかな笑顔。
美咲は買ってきた物を冷蔵庫にしまってから、僕の前に座って「さっきはごめんね」と謝ってきた。「いや、大丈夫だよ」と返すと「ありがとう」と言ってメイド服の美咲は抱き付いてきた。不自然なくらいスムーズに和解が進んでいる。まるでベルトコンベアに乗せられているかのようだ。彼女はどういうストーリーを思い描いているのか。ご都合主義的なものを感じながら彼女の体を受け止めていると「ご主人様にご奉仕してあげる」と耳元で囁かれた。
ご主人様とメイドという関係にさせられ、ご奉仕という名目で主導権を握られた。「たくさん気持ちよくしてあげますね」と何かで聞いた覚えのある台詞を美咲は言って、僕の性欲を刺激して自分の体に夢中にさせてきた。戻ってしまった。大好きだけど大嫌いな美咲に抱かれながらまた失敗してしまったことを悟った。
絶頂の後の小休憩。僕の上に乗っかっている美咲が「私がいない間、何をしていたの?」と聞いてくる。考え事を。でも何もしていないに等しかったし、途中で寝てしまった。考えた末、聞かれてから数秒後に「寝ちゃってた」と答えると僕の言葉を瞬間冷凍するように「嘘」と美咲は言った。しかし咎める風はすぐに無くなって、愛撫しながら、優しく、ぬいぐるみを撫でるように優しく「何をしてたか、ちゃんと教えて」と言ってくる。「だから寝ていただけだって」と言うと美咲は微笑んだ。目は笑いの形をしているだけで、その中の瞳が獲物を狙うように情の無い黒をしていた。嘘つき、と愛の言葉を囁くように彼女は言う。信じようとしない。むっとして、どうしてそう思うのか、と尋ねると美咲は「だって健太は私に隠し事をするから」と答えてきた。彼女の笑顔を作っている口の端が好戦的に上がる。「魔法が使えるのに、使えない振りをして、何をしようと考えていたのかな?」
どうしてばれた。何秒か自分を制御できずに固まってしまった。自分の目が驚いて見開かれているのに気付いた時には遅かった。そんな僕の反応を堪能したようだった。美咲は、ふふふふ、と笑い声を出す。黒い笑みで瞳が光っていた。「魔法使えることを黙って、魔法を使いたいのに使えない私を見て、どう思ってたのかな。もしかして、見下して、笑ってた?」そんなわけないと否定するが美咲は僕の言葉に耳を傾けない。「でももう隠し事はできないよ。だって私と健太はもう対等だから」と美咲が言うと、腕が自分の意思と関係無く動いて、手首を重ねた。そして、がちゃん、という金属の音がして僕は腕の自由を奪われていた。再び目を大きくしている僕に美咲が「私も魔法を使えるようになったんだ」と得意そうに言った。無理やり束縛する魔法だなんて、今の美咲にぴったりで怖いものがある。「私の見てないところで何をしていたのか知らないけど、でも許してあげる」嘘つけ。本当に許しているならこんなことしないだろ。そう言っても焼け石に水なのだろう。美咲には会話をする気なんて無くて、勝手に話を続けていく。「もう私と健太は一緒だし、これからは私が何でもしてあげるね」と言って唇を重ねてきた。
美咲は、僕が魔法を使えるということしか知らないようだった。何か魔法での反撃をしてくると思っていたのか、抵抗しないのを見て「何もしないんだ。あ、もしかして責められるのが好きなの?」と勘違いしていた。僕が魔法を使えば、美咲に手錠を外させることはできる。でもそれだけはしてはいけない。これは彼女の意思で行っていることで、僕が受けるべき罰のようなものだからだ。耐えるしかない。
行為を終えると手錠は外された。監視で束縛するつもりらしい。「ずっと私が傍にいてあげるからね」と言って、笑顔の押し売りをしてくる。そして美咲は以前のように家事をきっちりこなす素晴らしい彼女を演じた。
夕食。テーブルに並べられた料理の一つ一つが僕には敵のように見える。「ほら、食べさせてあげる。あーんして、あーん」と恋人らしいことをやってくる。仕方なく応じる。「どう、おいしい?」と聞かれる。おいしいのだが「おいしい」と答える他無い。「ねえ、どうして魔法が使えるようになったの?」と気になっていたことを聞く。買い物をしていたら、急に手錠で人を束縛できるようになった、なんて話では脈絡が無い。「亜紀さんもね、魔法使いで、教えてくれたの」とにっこりしながら言った。「私にどういう魔法の素質があるのか教えてくれて、しかも、私が健太君を奪っちゃおうかな、なんて私の魔法を開花させるために挑発してきてくれたの。それでばっちり」と嬉しそうに語る。そして「これでもう、ずっと一緒にいられるね」と笑顔を見せる。違う。お前が魔法使いを夢見ていたのは、僕と一緒にいるためなんかじゃないだろう。そう泣き叫びたいくらいに、彼女の動機が捻じ曲がっていたことが悔しかった。
風呂に一緒に入ってくる。絶えず性欲を自分に向けさせようと企んでいる彼女にとって自然に裸になれる入浴は絶好のチャンスなのだろう。例によって「洗ってあげる」と言って体を押し付けてきて、やがて洗うこととは無関係なのにキスをしてきて、どんどん肉欲を満たすための行為に変貌していく。ついに魔法を使えるようになったというのに彼女は僕に依存してくる。デートして、一緒に勉強して。そうやった結果がこれだ。美咲は暴走している。美しい恋愛を演出することでしか自分を保てなくなっているようだった。本来の彼女のリズムではない。だからどんな行為も上辺だけのものに見えてしまった。