第四話
少女が拳銃を持っている。小学生の手には拳銃は大きく、彼女が手にするにはあまりにも乱暴的すぎる物だということがよくわかる。しかし僕を睨んで銃口を向けた途端にさっきまであったアンバランスな感じは消えて、その姿は適切なのだと思わせてくる。そして滝が下へと落ちていくのと同じで、彼女の怒りは自然とこちらへ叩きつけられる。銃弾が僕の胸を貫いた。どさり、と倒れる。彼女は何かを言っている。たぶん「大嫌い」だ。最初の大に憎しみを込めて、後の嫌いは爆弾が弾けるように言うのだ。よく覚えている。
夢だ。記憶から参照してきたものにアレンジを施してくる。それが的確なメタファーになっているようで、目が覚めた時に苦しく感じる。銃弾。心の中に残っていたそれが暴れたのだ。痛い。「おはよう」美咲の綿のような声。流血を吸い取って包んでくれる。「うん、おはよう」彼女は今どうしているだろうか。疑問はすぐに頭の中から消えた。それよりも今は美咲のことが大事だ。今度こそは。
「今日ってお弁当いるのかな」キッチンに立つ前に、エプロンを着けた美咲に聞かれる。「どうだろう。でもあった方が嬉しいかな」 わかった、と美咲。ついに美咲が魔法をレンタルする日がやってきた。須山さんが美咲に魔力を与えてくれることになった。こういうのは知り合いにやってもらった方が安心できる気がするし、あの人なら「昔お世話になった凄くいい人」と美咲に紹介できる。コスプレ街の魔物を追っている件で忙しいからやってくれないかも、と思ったのだが意外とすんなりオーケーを出してくれた。
あの後美咲が作る量は変わらなかった。今日もテーブルを埋めている。ただ前よりも色鮮やかになった気がする。そう言ったら「そう?何も変えてないんだけど」と言われてしまった。たぶんこっちの思い込みなのだろう。前の料理にはあまりいい思い出が無い。もしかしたら以前は目玉焼きの白身が灰色に見えていたのかも。どうしても輝いているように見えてしまうからそう思った。
久しぶりに壁の外に出る。一体何を着ればいいのやら。そう美咲は悩んでいた。新しいのはゴスロリとメイド服だがそれを着ていくわけにはいかないとのことだ。「ゴスロリならちらほら着ている人見かけるけど」と助言するが「駄目、ここじゃないと恥ずかしくて着れない」と言ってくる。やっぱり目覚めたわけじゃなくて、コスプレの一環で着ただけだったようだ。「何かそういうキャラじゃないし」とも。確かに以前より似合わなくなっていそうだ。「やっぱり昔のやつ着るしかないか」と決心したようで、僕は洗面所に退散した。夏休みになったら服を買いに壁の外へ誘ってみたい。
着替え終わった美咲を見て「うわ懐かしい」と声が出た。「よかったよ。まだ着れたよ」と安堵している美咲は髪の毛が伸びたところ以外は高校三年生の夏休みの時とまるで同じだ。白単色のワンピースと青っぽいジーンズで冒険心が欠片も無い。コスプレを見慣れているせいもあって、ちょっと地味だ、と思ってしまう。黒縁の眼鏡を掛けさせたら面白そうだ。
普通の格好をしてコスプレ街を歩いてみて彼女は「何か凄く浮いてる感じがする」と漏らした。落ち着かない様子で猫背になって歩いていて、駅のホームまで来てやっと溜め息を吐き出した。「電車乗るのも久しぶり」と言って笑顔になるのがちょっと子どもっぽい。物珍しそうに車内をきょろきょろと見ている。服装のせいもあって、上京したばかりといった感じがあった。確かに都会と田舎と、もう一つコスプレ街の三つに区別してもよさそうだ。それだけあそこは特別な場所になっている。
壁の外。天井は無く、人々を照らすスポットライトは一つだけ。いい天気だ。雲の全然無い空を見上げる。太陽光を受けてビルがやる気を見せている。「空ってこんなに青かったんだ」と同じように上を向いていた美咲が感動していた。「どう?久々に見た空は」と感想を促してみる。僕が憧れている空。彼女にはどう見えているのだろうかと気になった。「綺麗だけど、太陽が眩しい」と手で目の上に影を作った。「それから、色んな物が、なんか、きらきらしてて。うん、眩しい」
歩きながら、こんなに太陽が眩しいと溶けちゃいそうだ、と美咲は冗談を言って「なんか吸血鬼になった気分」とまた手で影を作っている。血はまだ吸われていないが似たようなものだった。
「今のうちに慣れちゃった方がいいよ」とアドバイスしておく。「これから空飛ぶんだから」と言うと、美咲は仰天して「え、嘘」と目を大きくしていた。「本当。っていうか須山さんの使える魔法、それ以外周りに被害出るようなのばっかりらしいよ」だからこそ須山さんに頼んだのだ。魔法なら飛ぶやつが断然いい。被害ってどういう魔法なの、と美咲。「アニメでよくある感じのビームとか出せるみたい」
「へえ、そうなんだ」と言う美咲の目は心なしかきらきらしている。太陽のせいだと思いたかったが「いいね、ビーム」とやっぱりビームに興味を持ってしまったようだった。まあいいけれども。「でも素人にそんな危険な魔法扱わせられないだろうし、借りるのは飛ぶやつだけだよ」と言うと、「そう」と声から表情が消えた。美咲も飛ぶことにはそこまで憧れが無いようだった。あんなに素晴らしい魔法は他に無いというのに。
それから無言で歩いていたが、美咲が急に「健太って凄いよね」と言い出した。どこが、と返すと「魔法使いの知り合いがいるし、親御さんもなんか面白いじゃん。小さい頃に大金をどかんと持たせるなんて」
「須山さんは偶然活動場所が重なってただけだよ。ほら向こうもオタクだから」と言って、そして僕の口座に小学生の頃からある大金については「あれは親が面白い性格してたってより、謝罪に近いものだから」と適度に濁しながら説明した。「ふうん。でも不思議な人生送ってる感じがするよね。というか、あんま話してくれないよね」と言われてしまう。「あまり話して面白いものが無いからね」話してもよさそうなのは中学生の時にした馬鹿なことくらいだと思う。美咲は「気になるなあ」と言うが、あまり気にしてほしくないところだ。
待ち合わせ場所となっていた公園をうろうろしていると須山さんを見つけた。隣にもう一人いる。そちらの人は見たことが無い。「おっす。今日はよろしく」と須山さん。「よろしくお願いします」と言って、美咲と一緒に頭を下げた。こちらから聞く前に須山さんが「ああ、こいつは俺の助手みたいなもんで、遠藤だ」と紹介して、眼鏡を掛けて口を真一文字に閉じている真面目そうな顔つきの男が「よろしく」とお辞儀をした。
「それじゃあ早速始めるか」と須山さんが言って、美咲の頭に手をかざす。緊張しているようで、美咲も遠藤さんのような口をして硬直していた。須山さんが目を閉じた。何も指示されずに困っている美咲がとりあえずといった感じで目をぎゅっと瞑った。
十秒くらいで須山さんは手を離して、必死な様子で目を瞑っている美咲に「もういいよ」と呼びかける。そして「それじゃあ今から飛んでみようか」と言う。「え、もうできるんですか」と美咲は驚いたようだった。「魔法はイメージが大切だ。風船をイメージして」と須山さんに言われて美咲は目を閉じたのだが「ああ、目を閉じると危ないから開けたままね」と言われて開く。口はやっぱり真一文字になっていて、返事をするのも忘れているようだった。「自分の体が風船になったような感覚をイメージして」
須山さんに指示されてすぐにふわりと美咲の足が地面から離れた。しかし「あ、凄い」と声を上げた途端に落ちた。「今みたいに集中が途切れると落ちるから気を付けて」と言われて「あ、はい」と答えつつ、また浮上する。「凄い、飛んでる」と今度は落ちないで喋っている。徐々に上へ向かっていく。須山さんがそれを追いかけた。
制御する方法を色々と教えられて、そして結構な高さまで飛んでいった。美咲が「面白い」とはしゃいでいるのがなんとか聞こえるくらいだ。「さて」と遠藤さんが口を開いた。「我々は今日ここに来たのは君がいるからだということを理解しているかな?」と聞いてきた。生真面目な感じで、なんとなく威圧されている風に感じてしまう。「どういうことですか」緊張と反感で、ちょっと反抗的な声が出てしまった。すぐに、しまった、と思うのだけれどもう遅い。幸いなことに(初対面だから反抗的な声だとかわからなかったのだろう)遠藤さんはそれを咎めずに「コスプレ街とかいう場所で悪巧みをしている連中を探しているということを須山から聞いているね?」と確認してくる。僕は心を落ち着けるために声を出さないで、こく、と頷いた。
「我々が追っている連中は危険な思想を持っていてね。野放しにしておけば大変なことになる」と言ってから遠藤さんは少しだけ考えて「君も魔法使いとして活動していたのなら、幻想と名乗っている魔法使いの集団のことを聞いたことがあるのではないかな?どうだろうか」と尋ねてきた。なのでどういう話になるかなんとなくわかってしまった。「一応聞いたことありますけど」と答えると、予想していた通り遠藤さんは「彼らを捕まえるためにぜひ君の力を借りたいのだが」と言ってきた。
本来なら須山さんたちはコスプレ街の中で不審者がいないか探しているはずで、それをせずに美咲の面倒を見てもらっている以上僕は協力するべきなのだろう。「ごめんなさい、無理です」と言って僕は深く頭を下げた。「それはできません」と遠藤さんの目を見て強く断った。すると「理解できん」と遠藤さんは眉を寄せた。一直線に閉じるはずの口も歪んでいて、むっとしているのがよくわかる。「君の魔法を使えば、どんな仕事だって上手く事が運ぶだろう。珍しい魔法だから儲けやすくもあるはずだ。そう考えると君は我々よりよっぽど有能な魔法使いと言える。なのに、どうしてその力を使おうとしない。君は損している。勿体無いことをしている。どうしてそのことがわからないんだ」と力説される。言いたいことは理解できるが、どうしても自分の使える魔法が優秀なものだとは思えない。「すみません、そういうの興味無いんで」
遠藤さんは不機嫌そうな顔を隠そうともしないまま「そうか。まあこちらも無理強いはできないな。君が相手なら尚更」と皮肉まで言ってくる。この人とは考えが合わなそうだ。正直なところ、あまり話していたくない。嫌いだ。少しの間、無言でいて、彼の表情は元の真面目そうなものに戻っていた。そうなってから「しかし考えておいてくれ」と彼はまた口を開いた。「連中は規模が小さいために連盟はあまり人手を割いてはくれないのだが、彼らはとうとう魔物とやらを作り出すまでになってしまった。手が付けられなくなる前に壊滅させてしまった方がいい。そして一網打尽にするには君の力が必要だ。レンタルという形でもいいから協力してくれないだろうか」と熱心な勧誘を受ける。なるほど、と思う。自分の魔法がどのように使われるのか予想できた。
「協力した方がいいということはわかっているんですけど」今朝の夢が脳裏に浮かぶ。拳銃を向けられるだけのことはしてしまった。もうあんなことはしたくない。「でも、僕は他人の人生を無理やり歪ませて平気でいられる程、強くありません。他の人にも使わせたいとは思いません」ともう一度強く断る。彼は溜め息を吐いた。理解できない、という顔。そして「仕方ない。君無しで進めるとしよう」と言った。ちゃんと諦めてくれればいいのだが。
「ではもう帰らせてもらうよ。二人もさぼっているわけにはいかない」と言って彼は足を前に出したが、すぐに止めて「ああ、忘れていた」と言った。まだ何かあるのか。少しばかりうんざりとした。「こちらを聞くのを忘れていた。君、コスプレ街で不審者を見かけていないか?」不審者。話したことがあるばかりに、知り合いを不審者扱いするなんて、とつい躊躇してしまったが、既に須山さんには教えている。「須山さんにはもう言ったんで、遠藤さんも知っているかもしれませんが、悪魔の格好をした人がいました。黒い服を着ていて、羽と尻尾が生えていて、女性です」と言うと、ふむ、と難しそうな顔をして「確かに須山から同じ話を聞いた。しかしそれは普通のコスプレではないのか?」と聞いてきた。羽や尻尾がやけに複雑な動きをするからおそらく魔法で制御していると思われるということを説明すると「そうなのか、ふむ」とさらに難しそうな顔になってしわが寄っていた。コスプレ街にはあまり興味が無い人のようだ。きっと大変だろう。考え込んでいる様子で「ありがとう、では」と言って、立ち去っていった。
ふう、と溜め息が出る。あの人は苦手なタイプの人間だった。それに自分が魔法使いであるということはあまり意識したくない。他人を自分の思い通りにできたってどうしようもない。そんな魔法に価値は無い。美咲はどうしているだろう、と上を見ると彼女はしっかりと飛んでいた。ゆっくりだが前に進んだりと好きな方向に動けているようだった。少しずつ風船から脱却して鳥に近付いているようだった。首が痛くならないように気を付けつつ見守っていたら、美咲がこちらに、おうい、と手を振ってきた。ぶんぶんと大きく振る彼女にこちらも同じように腕を思い切り動かして反応する。僕も須山さんのように空を飛ぶ魔法を使えたらよかったのに。そうしたら彼女と一緒に寝転がるように、空中で小さくなった地上を見ながらお喋りできただろうに。
一時間が過ぎて、二人は降りてきた。「もう一時間経つの?早いなあ」と物足りなそうにしているから相当楽しかったのだろう。「で、魔法使いになるためにレンタルしてるんだったな」と須山さん。「はい」と答えた美咲に「じゃあ俺の魔力が無くなるまで、ほんの少しだけ浮いていた方がいい。一度使い切らないと、魔法が使えるようになったかどうかわからないからな」と言う。それから、と今度は僕の方も見た。「俺は他の仕事で忙しいから、次回があるようなら早めに連絡してくれ。それが落ち着くまでレンタルは一時間が限度だ」
「わかりました。ありがとうございます」と会釈しながら、もしかして次もあの人が一緒に来るのだろうか、と不安になった。そうだったら嫌なんだけど。しかし勧誘もセットでないと抜け出すのは大変なのではないだろうか。複雑だ。美咲には一日も早く魔法使いになってもらわないとこちらのストレスがまずいことになる。
須山さんも帰って、二人になる。「どうだった?」と言ってはみるものの、聞かなくても嬉しそうなほっぺたを見ればわかる。美咲は、凄くという部分を凄く溜めて「凄く楽しかった」と青空のような笑顔を見せる。表情に陰りが無い。空を飛んで心を洗濯したみたいだ。残り香を使って美咲は少しだけ浮く。そうやって十数センチの背の差を埋めて「えい」とキスしてきた。そして、すいっと後ろにスライドしながら「楽しい」とけらけら笑うのだった。
身長の差を無くして遊んでいた美咲が、不意にどっと落ちた。「うわ」と驚きながらもどうにか着地に成功する。須山さんからもらった分を全部出してしまったらしい。「ああ、終わっちゃった」と残念な様子。「飛べないかなあ」と自力でやろうとするが、目が上の方を見るばかりで何も起こらない。往生際が悪く、腕をばたばたと羽のように動かす。しかしただのおかしな動きをしている人になってしまう。「駄目かあ」とがっくり肩を落とした。それでも明るさを感じる。今までの沈み方が異様だったのだろう。あれに戻らないように「まあまあ。魔法って前触れ無しに使えるようになるものらしいから、諦めないでいこう」と励ます。僕の場合も突然だった。幸いなことに最初の犠牲者は母親で、内容もその日の夕飯のメニューについてだったからよかった。当時は、この魔法を使えば毎日好きな物や食べたい物を食べられる、と思ったものだ。本当にそれだけの魔法だったら、小学生の頃の人生は微笑ましいものになったのかもしれない。
「お弁当食べようか」と美咲が言って、僕らは適当な場所を見つけて昼食にした。彼女の用意したお弁当。そこに僕が食べたいと思った物がしっかり入っているとは限らない。海苔によって中身がしっかりと隠されたおにぎり。これも何が入っているかわからない。食べてみる。白いご飯の中に梅干がいた。「うん、うまい」幸せだ。「お弁当とか高校生以来だよ」と作った美咲が言う。短い期間だったが大学に通っていた時は学食で済ませていたらしい。ちらりと他の人から見られることがあって「外で食べるとちょっと落ち着かないね」と美咲は恥ずかしがっていた。
食べ終わって、水筒の麦茶を飲みながらのんびりとする。「この後どうしようか」どっか買い物でも行ってみる、と聞いたが佳織は「ちょっと疲れたからまた今度がいいかな」と答えた。初めて魔法を使って空を飛べば、そりゃ疲れるだろう。「わかった。じゃあ帰ろうか」
コスプレ街を歩きながら亜紀さんを探してみる。須山さんが時間を割いてくれるのだから、こちらもこのくらいはしておくべきだろう。探すだけなら魔法を使わなくてもいいし。僕が視線をあちらこちらに動かしているのを美咲は「ここに初めて来た人みたい」と面白がっていた。服装もこの街に合っていないし、確かにそのような感じがした。
「ティッシュどうぞだにゃん」とティッシュを差し出す猫耳の女性。この前と同じ人だ。猫耳が動いている。「わあ可愛い」と言いながら美咲はティッシュを受け取って、褒められた女性は「嬉しいにゃん」と猫耳をぴこぴこ動かした。そして僕の方を見て、ウィンクしてきた。ちょっと歩いてから美咲は「あの人凄いね」と言って「あの猫耳、あんなに綺麗に動かす人初めて見たよ。それに凄く似合ってて可愛かったし」と感激していた。「美咲も着けてみれば、猫耳」と言うと、美咲は「猫耳似合うかなあ」と手のひらを頭に乗せてぴこぴこ動かしていた。「いけるいける」美咲は可愛い系だから、悪魔とかよりも猫耳の方が似合うだろう。
部屋に帰ってきて、疲れたと言っていた美咲はベルトを外すとベッドに寝転がった。「はああ」と脱力して「ふわあ」と欠伸をした。そのまま動かなくなって、眠ってしまったのかな、と思って顔を覗くと目はぱっちりと開いていた。数秒見つめ合っていると、美咲が溜め息をついた。「やっぱり駄目だ」と言う。「どうしたの」と僕が聞くと、魔法が使えないか試していたと言う。「レンタルしていた時は、なんとなくやり方がわかってた気がするんだよね」と言う。「でも全部使っちゃってからは、そのやり方みたいなのが全然わからなくなっちゃって」記憶から知識も経験も消えてしまったみたいだと美咲は言った。
僕は「難しそうだね」と言った。魔法を使う時の形容しがたい、脳みその中がざわざわするような感じ。僕が魔法を使う時にはそんな感じがする。美咲が空を飛ぶ時にはどういうことが起きているのだろう。きっちり言語化できないだろう。「うん、よくわからないよ」と美咲は苦笑いした。魔法使いは皆、なんとなく魔法が使えて、なぜか魔法が使えない。自分の中にある曖昧なものがどういうものなのかわからないのだ。それを明確にしようとして深く考え込んだあまり、魔法の使い方がわからなくなってしまった人がいるという噂があって、未だによくわかっていない。美咲はそういうものを身に着けようとしているのだ。「まあ一回でわかるようなものじゃないでしょ。次も頑張ろう」と言うと「うん、ごめんね」と言ってきた。僕のお金を使ってレンタルしていることだろう。「別にいいよ。美咲の頑張ってる姿好きだから」と応援している思いを込めた。「ありがとう」と目が微笑んだ。そして「ちょっと寝るね」と目を閉じた。おやすみ。
美咲はぐっすり眠っていて、五時頃になっても起きなかった。結構疲れていたのだろう。彼女が寝ている間にベランダに干してある物を取り込んでおく。ついでにまた悪魔を探すが見つからない。もし亜紀さんが件の集団のメンバーだとしたら、追われているのに出歩いたりしないだろう。だからたぶん僕には見つけられない。
今まで家事の全てを美咲がやっていたから、取り込んだ洗濯物をどう扱えばいいか困ってしまう。自分の服はどうにかできるとしてもそれ以外をどうしたものか。とりあえず自分の分を、と思ったところで「ありがとね」と言って、美咲が起き上がった。「おはよう」と言うと美咲も返してくる。そして「後は私がやるよ」と言われてしまう。結局彼女に頼ることになるのか。口惜しく感じたが「じゃあ、お願いします」と任せた。
美咲は一人で手際よく家事をしていった。夕食も慣れた様子でおいしい物を作ってくれた。前まで家事は美咲の現実逃避の手段ということもあって手を出せなかったが、暗い部分の消えた彼女と暮らしていくのであれば僕も少しは何かをやった方がいいのではないだろうか。しかしクオリティの差は歴然で、僕には彼女程の夕食は作れそうにない。一人暮らしをしていた少しの間に作った物も上出来と言えるような物じゃなかった。何なのだろう。彼女が魔法少女を目指す決意を再び固めてから自分の居場所が狭くなったような気がしてしまう。何も美咲に与えられていないような。これが彼女の言っていた、価値が無い、って状況なのだろうか。そもそも価値なんて気にしたら、僕は美咲と付き合っていいような人間ではない。
「どう、おいしい?」と聞かれて、はっとする。旅してしまった。習慣のおかげでよく噛んではいたけれども味わっていなかった。たけのこの炊き込みご飯。味の方に意識を向けてみる。グルメでないから「うん、おいしい」という台詞しか出てこないのだがそれでもきちんと伝わっているようで美咲は「よかった」と言って微笑んだ。その顔を見ると嬉しくなる。無理しないで、今みたいな調子でもいいのかな、と思えた。美咲は僕に色々なものを与えてくれる。彼女への感謝の念を大量に入れて「ごちそうさま」と言った。伝わってはいないだろうけど。
夜のセックスの回数が減った分、見るアニメの数が増えた。魔法使いを主軸に置いたアニメには現実に近いことを意識したものとファンタジー色の濃いものとがある。現実に近いようでいて、でも現実には起こらない。そんなアニメをやっていた。魔法はもしかしたら使える人がいるかもしれないもので、主人公たちも実在していそうなレベルの優秀さ。現実とは違うのは、人類を脅かす敵として怨霊が出てくるという点だった。どうも怨霊も魔法の力でこの世に出てきた、という設定らしい。これまでの話を録画していなかったから話の展開がよくわからず、最終話が近くなって盛り上がってきているのに置いてけぼりを食らっていた。ただ怨霊との戦いと雰囲気を楽しむだけになった。
「なんか面白い感じだね、怨霊が魔法を使って襲ってくるって。本当にあるのかな」と美咲は言ったが、そんなこと無いと思うけどなあ、と返す。そんな話、聞いたことが無かったからだ。「でも魔法使いが戦う相手って悪い魔法使いと怨霊くらいしかいないよね」と言う。「戦うのが前提なんだ」少し呆れてしまう。日本魔法連盟が扱うような魔法使いの仕事は、田中が夢中になっていた子のような芸能活動や、魔法のレンタル、その他お手伝いのようなものがメインだ。戦うことはあっても、アニメのように派手なバトルになることは少ない。戦っている魔法使いのうち片方は、被害を出したら報酬が少なくなりかねないからだ。
「でも魔法があるんだから、私たちの知らないところでとんでもない戦いが起きていても不思議じゃないと思うんだけどな」と美咲は言う。僕の頭の中には、それは確実に無い、と言えるような知識が無い。否定するのは諦めて「本当にあっても、そういうのに行かないでね」と釘を刺しておく。アニメの魔法少女に憧れるあまりに危険な場所に行ってしまいのではないかと不安だ。少々好戦的な面もあるし。「大丈夫大丈夫」と彼女は笑う。本当か?
時計の長針と短針が真上を向きそうになっているのを見て「そろそろ寝ようか」と僕は言った。もうすぐ零時だということを意識するとなんだか眠くなる。「そうしよっか」と美咲も欠伸をした。歯を磨くなどしてからベッドに入る。真っ暗にしたはずの部屋でも徐々に目が慣れてきて、どこからか漏れている光のおかげでぼんやりと隣にいる美咲が見えた。眠気が門を閉じて本当に真っ暗にしたのだが、美咲が落ち着かない様子なのを耳が聞き取って、門を開けさせた。美咲は姿勢を頻繁に変えて、溜め息を漏らしている。一体どうしたのか、小声で聞いてみる。すると「なんか眠れない」とだるそうな返事がきた。「お昼に寝すぎたみたい」と言って、ベッドを二人で分けているために動きにくかったのを晴らすように、こちらに触れて甘えてくる。そのせいでこっちの眠気もどこかに行ってしまったので、僕も彼女の体を引き寄せた。