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第一話

 やはり今日も美咲は学校に行かないようだ。きっともうこんな生活に慣れてしまっているのだろう。エプロンを外さずに美咲は僕に弁当を手渡してきた。そして「行ってらっしゃい」と見送られる。まるで夫を愛する妻のように頬を柔らかくして。最初の頃のように「健太も行かないで」と駄々をこねなくなった。それでも送り出す顔にはどこか憂いが見て取れる。目の辺りが笑顔を作りきれていないようだ。どうにか解消してやりたいと思うのだけど、この場面で彼女を安心させる台詞はなかなか思い付かない。代わりにできる限り語調に彼女への好意を含ませて「うん、行ってきます」と言った。ドアを閉めるのはいつだって僕の方だ。鍵を閉めるのも。

 アパートの外に出ても室内とあまり変わらない。無感情な光が世界を明るくしている。上を見るとそこには天井がある。そして大きな照明がいくつも並んでいて太陽の代わりをしているのだ。それを直視してもちょっと眩しいだけ。太陽のように暖かさを感じないせいか外出しているという気分にあまりならない。遠くを見れば大きな壁が地平線を隠している。ここは大きな箱なのだ。箱の中にはアニメショップなどの並ぶ大きな通りと、その近くに建っている同様の店、そしてそれらに誘われるようにして経ったいくつかのアパートがある。天井の下にビルなどが建っている光景は、まるでシェルターの中にいるみたいだと思わせることもある。けれど天井も壁も来るかもしれない戦争に備えるための物ではなくて、もっと身近なものから自分たちを守るための物なのだ。

「どうにかしないとなあ」誰もいない通りで呟く。僕も美咲も大学生。本当は美咲だって僕と同じように大学へ行かなきゃいけないのに。行くのをやめてから結構な月日が経っていた。彼女が一人でいる時間にこの件をどのように考えているのかわからない。もしかしたら考えるのさえやめているのかも。けれど僕は毎日、どうにかしないと、とだけは思うようにしている。心の底まで今の彼女の状態に慣れてしまわないように気を付ける。朝は静かだ。昼にもなればこの場所はおもちゃ箱をひっくり返したかのような光景になる。だから今の静けさはちょっとばかり寂しいものがある。誰もいないビルの中を歩いているような気分。コスプレ街と言われるような趣は全く感じない。ひょっこり誰か現れないだろうか、と周囲に気を配りながら、太陽を見に今日も外へ行く。

 電車で外の世界に出る。やっと空が見える。今日は晴れ。嬉しくなる。とうとう梅雨が明けた。夏は近い。気持ちのいい空を見ていると、視界の中に人が入ってきた。やたらと小さく見える。お人形くらいのサイズ。そう見えるのは彼が空を飛んでいるからだ。ゆっくりと飛んでいる。パトロールあるいは散歩をしているのだろう。「いいなあ」清々しい青をバックにして飛んでいる姿が羨ましい。

 飛行は魔法を使えない人間が憧れる行為の一つなのだけれども、大学の友達とかはそれよりも魔力を使ってド派手なバトルをしたいと思っているようで、僕のように飛ぶことに憧れているのはおっさん臭いと言われてしまう。でも僕は何年も前から飛ぶことに憧れていた。空は僕らにとって夢に等しい。理想としている瞬間がある場所として見ているうちに、空の青さが理想のようにさえ見えてくる。

 大学は結構居心地のいい場所だ。ここにいる人たちは飛べない。自分の魔法で魔法使いとして活動していけるような才能のある人の大半はこんな所で勉強しようと思わないものだ。その能力を手にした人間は中学や高校の時点で学問から離れて、魔法を利用して生計を立てていく。だから大学にいる面々は大人しく物理法則に従っている人たちばかり。その中にいるととても安心できる。

「なあなあ、聞いたか?小学生の天才魔法少女」学食。友人の質問に「いいや、何それ」と答える。皆が学食の食べ物を食べている中で僕だけ持ってきた弁当を食べていて、浮いている。一緒に話しながら食べている田中がその感じを薄めてくれている。その田中が携帯端末をいじり、画像を表示してこちらに見せてきた。あどけなさのある顔の整った少女。「期待の新人、大森ゆみちゃん。まだ小学四年生なの。超可愛いし、たまらん」ロリコンめ、と言ってやる。それから「やっぱ引っ張りだこになるのかなあ」と聞いてみる。「勿論そうなるだろうよ」と田中は言った。「天才ってだけあって、結構派手なことできるらしいからテレビにも出るだろうな」楽しみだなあ、と田中の目はとろんとしていた。魔法は芸になるし派手な映像にするために金を使う必要も無い。小学生で魔法使いとして活動しているとなれば、全国の少女とその親に夢と希望を与えるに違いない。アイドル的な面も期待される。大変だろうなあ、と思った。「俺も可愛くて天才な魔法少女に生まれたかったなあ」と田中は羨ましがっている。そうだね、と同意しておいた。

「でも本当に羨ましいよ」と田中。少女を見て伸ばしていた鼻も元に戻っている。「あいつら、俺たちにできないことができて、しかもそれで食っていけるんだからよ」溜め息と交代するように食べ物を口に入れていた。「まあね」使えない人間にとって、魔法は遠い世界のお話みたいだ。あちらは派手に稼いで、こちらは地道に稼ぐしかない。そんな印象を持っている。

「そうそう、中学の時にさ、クラスにいたんだよ、魔法使いのやつがさ」そう言う田中のフォークが少し乱暴になる。プラスチックの皿とぶつかって音を出す。でもすぐに大人しくなる。「あいつ今どうしてんのかなあ」遠い目。「いじめられたりした?」田中は首を振った。「いんや、逆。暗いっていうか大人しいやつだったんだわ。正直最初の頃は魔法使えるってこと知らなかったんだけどさ。そればらしたやつがいて、そっから魔女狩りだよね」フォークでコロッケをぶすりと刺した。それから「ああ、でも男だから魔女じゃないか」とコロッケを口に運ぶ。魔女狩り。そういうこともあるんだなあ、としみじみする。「で、どういうことしたの?」まあ色々と、と答えてきた。

「でもまあ普通のいじめより過激になったな。魔法使い様なんだからこんぐらいどうでもねえべ、って感じでさ」それで実際に何をしたのか、と食い付く。「ライター持ってきてたやつがいたんで、それで教科書とか燃やしたりした。プールの授業の時は当然沈めたしな」そうやっていじめているうちに登校拒否になって、それ以降一切学校に顔を出さなかったらしい。おっかないこともあるものだ。「あいつ今どうしてるかなあ。ちゃんと生きてるかなあ」心配しているようでありながらも、魔法使いだからどうにでもなるだろうけど、といくらか楽観しているようだった。自分がいじめた相手の人生がとんでもないことになっていると知ったらやりきれないものだ。でも魔法使いの人生は常に輝いているわけではない。「犯罪グループのメンバーになっていたりして」その力を犯罪に利用する輩も当然いる。いじめられたせいでそういう道に走るかも。そう言ってやると田中はがっくりとうなだれた。「勘弁してくれ」自分がいじめられたわけではない。彼の心を痛めつけるのもここまでにしておこう。「ああ、やっぱりとんでもないことをしちまったんだなあ」と後悔しているようだが、もうどうしようもない。それがわかっているから「復讐されないように祈らないとね」という中途半端なフォローになってしまった。「まあ、そんくらいしかできねえよな」田中はフォークを皿の上に静かに乗せた。

 受けるべき講義を受けたらすぐに帰る。残っていても何も起こらないし、なるべく早く帰らなくてはならないという義務感があった。帰りの電車で携帯端末をいじっている少しの時間。ネットに繋いで情報を探す。魔法使いとしての才能を開花させるのにいい方法はないだろうか。しかしいくら探しても都合のいい方法は無い。一般的によく知られているような方法でしか魔法を使えるようにはならないみたいだ。でも今の美咲には不意に魔法に目覚める程の気力なんて無いだろうし、魔力をレンタルして魔法に慣れる手段でいきたいのだが誘いにくい。いい誘い文句を探して数ヶ月。全然思い付かない。

 あの頃の、自分は魔法少女になるのだと信じて目を輝かせていた頃の美咲なら簡単に誘うことができたのに。それか、沈んだ反動で「私、やっぱり魔法使いを目指してみよっかな。まあ私ならいけるでしょ」と不自然なくらいに積極的になってくれてもいい。心がなりたいという意思一色に染まってくれれば、僕は用意できる手を全て打ってやれる。けれど彼女はそうならない。夢へ進む勇気を失い、夢を諦める勇気も生まれない、そんな美咲との適切な付き合い方がわからないまま僕は彼女と一緒にいる。申し訳ないと思う。こういう時にトラブルをすぱっと解決してしまうトラブル除去の魔法があればいいのに、と思ってしまう。そんなものあっても使ってはいけない。楽な方向に行こうとする自分を叱った。

 今日も天井のある街はにぎわっていて、演技をしている街という本当の姿を現している。駅周辺をちらりと見ただけで今日は赤いメイドを二人も見つけてしまった。今日は運がいいみたいだ。それと知っているゲームのキャラクターのコスプレをしている人がちらほら。話しかけてみたくなる。しかしそう思って話しかけたことはこれまで無いし、今日もなるべく早く帰ろうと都合のいい言い訳があって、通り過ぎていく。ちょっと早足で歩く。ここではコスプレをしていない自分が浮いているみたいに思えてくる。ここで歩くために、コスプレ用の衣装ではないけれど、空気に合った服は持っている。けれどそれを着て大学には行けないし。そうやって過ごしているうちに早足で歩くのが速くなってきたようだ。すたすたと足を前に進ませてアパートへ帰る。途中で羽と尻尾を生やした悪魔か何かのコスプレをしている人を見た。羽が大きい上に尻尾も長くて前から見ているのに悪魔とわかる。肩や太ももまで晒している露出度の高い黒い服で、イメージとしてはサキュバスが近いのだが露出した肌よりも羽と尻尾の存在感がとにかく凄かった。どういうわけか尻尾はだらんと垂れておらず、ぴこぴこと動いて表情を見せている。どういう仕組みで動いているのだろう。しかし気合いが入っている。もしかしたら近所に住んでいるのかもしれない。凄いコスプレをしている人は大体この天井の下に住んでいるものなのだ。コスプレした状態で歩くことが許されているこの街になるべく長い時間いることで、コスプレを普段着に近付けようとしている。きっとそういう生活をしているその人の顔には眼鏡。悪魔で眼鏡なんてアンバランスな気がするが、眼鏡が妖しさを増加させてマッチしているようにも見える。

 そんなコスプレイヤーを照らしているスポットライトが天井の照明というわけだ。もしかしたら彼女たちには僕と違ってあの光が凄く輝いて見えているのかもしれない。「ティッシュどうぞですにゃん」ティッシュを渡される。にゃんなんて語尾で話す人なんて、ここでしか見られないだろう。ここで変えるのは衣装だけではない。自分の内面さえも変えてしまう。憧れのキャラクターに近付くため、自分の嫌いな部分を隠すため、なりたい自分に変わるため。理由は様々。どうあれ、このコスプレ街は自分の理想を実現させやすい場所なのだった。

 鍵を開ける。「ただいま」と呼びかけるとすぐに「おかえり」と今朝のいってらっしゃいより何倍も元気な声が返ってくる。その落差が胸にちくりと刺さる。軽く走るようにして玄関まで来て再び「おかえり」と言って抱き付いてきた。その過激な行動にもう一度ちくり。こっちは同時に嬉しくもあるから「うん、ただいま」と言いながら、なすがままになる。今日はさらに機嫌がいいらしい。キスまでしてくる。べったりだ。そのべったりに付着している不穏なものを気にしなければ、僕は幸せ者だと思う。美咲は綺麗だ。それこそ魔法使いとしての才能が注目されれば美少女魔法使いとしてテレビに出ていけそうなくらいに。

 腕に彼女の体重が乗っかる。そのまま引っ張っていかれる。「それじゃああれ見よ」アニメの録画した分を見るために僕らはテレビの前に座った。コスプレ街は元々アニメやゲームに溢れた街だったため、ここにはそういうものが好きな人間が多い。僕らがこの壁に囲まれた地域に住んでいるのはアニメが好きだからというのが大きいのだ。さらに遡るとまた別の姿があるらしいけれども、今のこの街はアニメとゲームと漫画とコスプレに満ちている。

 録画するアニメは美咲の好みで決められる。見る価値があるやつと無いやつとに分けているとは言っているものの、彼女の録画するアニメに魔法少女ものが入ってくることはない。二年くらい前までは大好きだったのに、見なくなった。理由はわかっている。魔法使いを目指す人たちは、それを題材にしたアニメやドラマを見て、それに憧れたから魔法使いになりたいと思うのだ。二年前までは彼女にとって魔法少女のアニメは自分の輝かしい未来。だけど今の彼女にとってそれは叶わなかった夢なのだ。今では彼女の好きだった魔法少女のアニメのボックスも本棚の奥の方に押しやられている。

 美咲と一緒に見ているアニメは魔法の存在しないファンタジーが多い。それからロボットアニメのようなSFもよく見る。努力や運なんて関係無しに僕らの手が届かないようなものを美咲はアニメに求めている。魔法使いが空を飛んだり戦ったりする、もしかしたら現実にあるかもしれないお話を激しく嫌っているのが手に取るようにわかって、辛い。

 巨大な人型ロボットが戦闘へ向かった。画面が激しく動く。僕と美咲が話すことといえばロボットやコスプレのことばかりになる。今日聞いた小学生の天才魔法少女の話なんて当然できない。世間は二十歳の魔法使いよりも中学生や小学生の魔法使いにスポットライトを当てる。若いうちに才能を開花させることが素晴らしいことであるようだ。その方がこれからの人類と魔法の未来が明るいのだと希望を持つことができるのかもしれない。事実はどうあれ大体の人間は高校生になった頃には魔法使いを目指すことをやめてしまう。夢を見ることなんて馬鹿らしい、と。そういう心理が働くせいかどうかはわからないけれど、高校生くらいになってまだ魔法を使えない人間はそのまま使えるようにならない傾向があるみたいだ。僕らはもうすぐ二十歳になる。時間が美咲の夢を押し潰していた。生きている世界とは全く関係の無い世界のお話を見ていると、かえってそんなことを考えてしまう。美咲はそんなことないのだろうか。楽しげだ。でも僕の意識は画面だけでなくそれを映しているテレビそのものもしっかり見ていた。どんなに動いてもロボットはその枠から出てこない。

「やっぱこれ格好いいねえ」エンディングも次回予告も見終わってから美咲がそう言う。格好よかったことは確かだったし、アニメそのものは好きだから「うん、今週も頑張ってた」と僕は同意する。美咲は手に持ったリモコンでアニメを見るためだけに使われるテレビを消した。テレビが何も言わなくなった代わりに美咲が喋る。あのキャラがよかった、ここが面白かった。

 こちらも彼女の感想に応戦してあれやこれやと言ってみるのだが、何分かすると僕らの頭の中は真っ暗なテレビのようになって、やはり黙ってしまうのだった。空白に焦る。どうしよう、何か。リモコンのボタンを何度も押すように言葉を探してみるが何も反応しない。秒針がたくさん動いて、美咲は分針のように、ことりと僕の方へ傾いた。そこからは滑り台を降りるように動いた。抱き付いてきてキスをしてきて、彼女の手は体を撫でてくる。

 魔法少女になることを目指していた情熱を今では念入りに唾液を交わらせることに使ってくる。愛情表現とされる行為を彼女は何度も何度も繰り返す。そんな彼女が気に食わない。僕に依存しようとしているのが見えてしまうから。それでも次第にキスの快楽に嫌悪感が溶かされていってしまう。長い髪が彼女の背中からぱさりと落ちて、かかってくる。その黒に埋め尽くされるように僕は彼女に押し倒された。

 性行為を終えて、美咲はキッチンで夕飯を作り始めた。手料理もまた愛情表現となるだろうから彼女は力を入れてそれをする。こっちはぐったりとしながら考える。この状況をどうにかしないといけない。高校生の時はこんなことしてこなかった。持ちかけるのはいつもこちら側で。だから彼女の行為は単に愛情を示すだけではなくて、魔法使いになれなかった自分の存在意義を僕に求めるための行為でもあるのだろう。彼女は演じている。壁に囲まれた街でコスプレをしている人たちと同じように。

 どうしてこうなってしまったのか。美咲がどういう心情でいるのか読み解こうと、こういう空いた時間によく考える。大学に入ったもののすぐに行かなくなったこと。たぶん美咲には大学の後が見えなかったのだと思う。ずっと魔法使いになることばかり考えて生きてきて、それが叶わなかったから仕方なく大学に入っただけだから、魔法の無い人生をどうしたらいいのかわからなくなってしまったのだろう。魔法で生きていくことを前提にしていたのに、突然その道が消えてしまったら戸惑うということはよくわかっている。きっと彼女もその暗闇の中にいる。目指すものを失った彼女は誰かが必要としてくれる人間になろうとして、きっと自分の体が人より優れていることを自覚していて、それで肉欲に訴えかけているのだと僕は考えている。本当にそうだったとしても僕は彼女のことを好きでい続けるだろうからいいのかもしれない。でも僕がいいなと思ったのは、自分のやりたいことに情熱を捧げていたあの頃のような彼女で。変わってしまった彼女を突き放すという選択肢は存在しない。今でも愛しているから。綺麗な言葉を吐こうとした自分を、それだけじゃないな、と暗い顔の自分が追い詰める。罪滅ぼしをしたいという念と、それから肉欲もあるはずだ。その上恐怖している。聞こえてくる包丁の音が自分の体を刻む音に変わってしまいそうで。そういう感情を隠して自分も彼女の演技に合わせて踊っているだけなのかもしれない。そんな自分がたまらなく嫌になる。

 夕飯はとてもおいしいカレーだった。どんどん上達していっている。「どう?今日は結構自信ありなんだけど」と聞いてくる彼女に「うん、凄い」と褒めると満面の笑みを見せる。その表情を写真のように切り取ってしまえれば、今の生活は十分に幸福なものなのだけれど、人生は長い映像のようでこの笑顔の前には恐ろしいシーンがいくらでもある。「愛してるんだよ」という言葉に愛情と一緒に刃物のような冷たさが内在しているのを感じてしまった瞬間とか。曇っていない時間はいくら重ねてもいい。けれどマイナスをこれ以上重ねたいとは思わない。この映画は都合の悪いシーンをカットすることができないのだから。

 ある程度の規則性とランダム要素に左右される入浴。今日は一人でゆっくりできる。美咲と一緒に入ることになってしまうと浴室の湯気は桃色になってしまう。それはそれで嫌だとは言えないから複雑だ。ただそういう行為によって依存しようとしてくるのは彼女の本来の姿ではないはずだと僕は信じている。だって魔法少女を夢見ていた頃の彼女は、今日の夕食の時に見せた表情のように輝いていたのだから。

 貴重な一人の時間をじっくりと使って疲れを癒す。休日に美咲と入浴することになった日は、一人で落ち着ける場所がトイレだけになってしまう。あそこで心を落ち着けようとするのはいささか空しいものがある。もしかしたら明日からしばらくここで一息つけなくなるかもしれない。未来というのは操作できるものではないから僕はこれから海に潜る前に大きく息を吸うように、ゆっくりと湯船に浸かった。お湯がゆっくりと揺れているのが妙に嬉しかった。美咲ともこうやって穏やかに入れたらいいのに。けれどその願いはまだ叶いそうにない。他人の心は難しい。どうやって癒してあげればいいのか、手の差し伸べ方がわからない。魔法がこれから解明され発展していって人の生活がより豊かなものになっていったとしても、こればかりは魔法に頼るわけにはいかない。魔法の力で無理やり悩みを解消したら、それは治癒ではなく改造だ。溜め息が出た。このまま重苦しいことばかり考えていてはリラックスにはならない。出ることにする。ざっぱと水が音を立てた。

 ネットを見て時間を潰す。時にネットは泥沼のように利用者の時間を奪っていく。いっそ眠たくなってしまうまで僕らの時間を進めてしまってほしい。一緒にモニターを見つめる美咲も最初は楽しんでいていた。けれども次第に夜の時間を愛の儀式に使おうとして誘惑し始める。体をぴったりくっ付けてきたり、胸を押し付けてきたり。少しずつエスカレートしていって、耐えられなくなる。どれだけ意地を張っても性欲は反応する。だからいつも途中で諦めてこちらから押し倒してしまう。今日も耳に息を吹きかけてきたりする彼女の誘惑に我慢できなくなって抱き締める。舌を絡ませ合って、それから彼女の顔を見ると、目が綺麗なカーブを描いて微笑んでいて、心の底から嬉しそうな表情をしていた。でもできればその顔は、肩を寄せ合っている穏やかな時に見たかった。そのことを告げられないまま僕らはゴミ箱の中に避妊具を追加した。

 今日の美咲はすんなりと眠ってくれたようだ。先に寝てくれると非常に安心する。暗くて表情を見ることはできないが、早朝に見た彼女の寝顔はよく覚えている。きっと今もその時と同じように曇りの無い表情をしているのだろう。起きている時の顔は、挫折しながらも諦めきれていない、そういう苦痛が表情に影を落としているような気がする。だからせめていい夢を見ていてほしい。そう思いながら目を閉じた。

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