時間の牢獄
※人が死ぬ表現を含みます。
世界は、出口のない箱だった。
木村涼介は窓側の席に座り、黒板を見ていた。見ていた、というのは正確ではない。目が黒板の方向を向いていた、というだけだ。先生の声は聞こえていた。聞こえていたが、意味になる前に消えた。隣の田中が何か言った。笑い声が起きた。涼介の肩のあたりに視線が集まった気がした。気がしただけかもしれない。もう、どちらでもよかった。
家に帰れば帰ったで、別の息苦しさがあった。母は夕食のとき何かを話しかけてきた。涼介は返事をした。父はテレビを見ていた。茶碗の音がした。割れそうなほど静かな夜だった。自分の部屋に戻り、ベッドに横になると、天井が近すぎた。壁が近すぎた。自分の体が、この部屋に、この家に、この世界に、どこにも収まっていない気がした。
どこへ行っても、自分のための空白がなかった。
紐を用意したのは、衝動ではなかった。
クローゼットの上の棚。ロープ。金具の強度を指で確かめた。涼介の手は震えていなかった。
踏み台を蹴った瞬間、世界が——
切れた。
床に叩きつけられた。背中に痛みが走った。天井を見上げた。蛍光灯が白く光っていた。失敗した、と思うより先に、何かがおかしいと気づいた。
音がなかった。
蛍光灯の、あの微かなジーという唸りがない。廊下から聞こえていたはずのテレビが、聞こえない。
涼介はゆっくりと立ち上がった。
ドアを開けた。
母が廊下にいた。
夕食の後片付けを終えて、洗面所へ向かう途中だったのだろう。右足を踏み出した姿勢で、止まっていた。
母の胸は動いていなかった。髪が、空中でわずかに流れかけたまま、固まっていた。
触れた。肩はそこにあった。しかし、揺すっても、ピクリともしなかった。
リビングへ行くと、父がソファに座ったまま、テレビの方を向いて止まっていた。画面には人物が映っていたが、その口も、瞬きも、止まっていた。涼介は父の顔を両手で挟んで向けようとしたが、動かなかった。
叫んだ。
二人は、微動だにしなかった。
外へ出た。
風がなかった。
電柱の上で、一羽の雀が翼を広げかけたまま止まっていた。青空の中に、雲が絵の具で塗られたように固定されていた。街路樹の葉が、一枚一枚、光を受けて止まっていた。
国道へ出た。
車が、道路を埋めていた。赤信号で止まった車ではなく、青信号の交差点の真ん中で止まった車、車線変更の途中で止まった車、急カーブで車体が傾きかけたまま止まったトラック。エンジンも、かかっていなかった。静寂だった。完璧な、音のない静寂だった。
人がいた。
横断歩道を渡る女性。スマートフォンを見ながら歩くスーツ姿の男。子供の手を引いた老人。全員が、それぞれの動作の途中で、止まっていた。
涼介は正面に立った。避けてくれなかった。ぶつかっても、弾かれるのは涼介の体だけだった。たたいた。痛みは涼介の手にだけ返ってきた。
歩いた。
どれほど歩いたかわからない。疲れが来なかった。腹も減らなかった。喉も渇かなかった。日が傾かなかった。影の角度が変わらなかった。雀はまだ翼を広げかけたまま空にいた。
公園のベンチに座った。
砂場に、子供がいた。スコップを持った手を上げたまま、止まっていた。その隣で母親らしき女性が膝をついて、子供の方を向いて笑いかけたまま、止まっていた。
涼介はその笑顔を、長い時間見ていた。
死後の世界はなかった。
天国も、地獄も、再生も、消滅もなかった。
ただ、彼が生きていた時間は終わった。そして世界は終わらなかった。世界は完璧に、永遠に、涼介の最後の瞬間のかたちで、そこにあり続けていた。
涼介は立ち上がり、空を見た。
叫んだ。
声は、どこへも届かなかった。反響もしなかった。吸い込まれるように、静寂に溶けた。
もう一度、叫んだ。
何かが変わるわけでは、なかった。
ただ彼は、動かない世界の真ん中で、ひとりで、声を上げ続けた。それだけが、まだ動いているものだった。彼の叫びだけが、この止まった宇宙の中で、時間を持っていた。
だから彼は、叫んだ。




