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Prelude/前奏曲

 人間が造形した生命には、生命なりの生き方が存在する。

 このフレーズに多くの違和感を覚える人間も多いのかもしれない。いや、造形した生命を服従させ続けてきた人間にとって、そのフレーズは紛れもない戯言である。

 しかし、そのフレーズを広めようとした彼は、こうも言うのだ。

 「我々人間にとって、彼らは我々よりも頂点に立つ、上位種族だ」と。

 __この発言の後、彼の話を聞く者は一人としていなかった。いや、聞く気になれなかったと言えばいいだろうか。

 なにしろ、彼のような異端者(マイノリティ)は自分を殺して生きるほかない。例え、人間ですら影の一つとして描かれるような暗黒の中でも、彼らはいつだって聞き耳を立てているのだから。



 

 「通っていいぞ。真っすぐ歩けば案内係が見えてくるだろうから、まずはそいつを探してこい。」

 赤色のベレー帽を深く被り、「連邦軍憲兵科(Feldjäger)」の白文字が飾られた黒い腕章を掛けている特徴的な男が、俺の目の前に立っていた。

 その奥には、彼以上に異様な雰囲気を纏っている建造物が。あれこそが、俺の次なる着任地のようだ。

 ああ、確かに噂通りの場所だ。中で何をやっているのか、それを邪推する事さえ許されない空間。かつ公には公言されていない、それ自体が一つの機密情報である、と。

 ペトリコールが香るコンクリートの道を踏みしめるたびに、そのような噂を次第に信じ込んでしまうような感覚を憶えるようで、微かに身震いする。そしてこれは、興奮や喜びからくる震えではない。少々自分のだらしなさを実感するが、これは恐怖への防御に他ならなかった。

 しかし、マーチ調の歩みを止めることなど今更不可能だ。世界を包み込むような炎が勢いを増そうとしているのであれば、我々人類は須らく鎮火に努めるべきである。太陽に照らされたこの平和な大地でさえ、例外ではない。世界へ火種を投じたのは、我々人類に他ならないからだ。

 なんと、不幸な時代に生まれてしまったのだろうか。昔のその昔、齢一桁後半の時。机で双眸を閉ざしていたころには、幾度も平和な世界を思い描くことに思考を巡らせていた。

 全く子供じみた行為だ。具体的なアプローチや信念も、ましてや平和な世界がどのようなものであるかも知ろうとしない。ただ、"平和"という概念だけが正義そのものであると、宗教的に考えていた子供の頃の俺に、心底嫌悪感があった。

 ...いや、そう考えるに至ったのはこの環境の為か。今思えば、自らの信念も幼稚ゆえの考えも、痛いほどの冷風が吹き荒れる白銀色の平地のように変わってしまったのは。


 冷たく、鋭い痛みを伴った風が身を打ち付けている。案内係を探し始めて5分、或いはそれ以上。先ほど施設のエントランスを見渡していたが、人なる者は未だ見つけることはできない。

 今が明朝ということもあってか、人けは全く感じられない。いやむしろ、これが本来あるべき姿であると思わせるほどに、殺風景かつ単調である。

 恐らく、これが軍内で噂されている所以なのだろう。確かにこれはこれで不気味な雰囲気を感じ取るのも無理はない。個人的にも、ゲオルク・トラークルの遺した詩を思い出させるようで、実際には似て非なるこの雰囲気に若干の違和感を覚えた。違和感の正体を理解することはできないだろうが、感じることができる。その感覚が、とてつもなく気味が悪くてたまらない。

 不快感が全身を襲うが、外の風景は依然として変わらない。もしかすると、すれ違ってしまったのだろうか。もしかすると、案内係は正門の近くで暇しているのかもしれない。

 といっても、正門はエントランスの近くにある。そうそう見つけられないなんてことはないと思うのだが...。

 「__迷子?」

 女声。重く沈んだようなトーンで、かつ凶器のような鋭さを持っている。

 混乱が収まらないうちに、俺は咄嗟に身を後ろへ向けた。姿はない、では何処にいる?どこから声がした?

 「どこか...」

 声を出したその一瞬間、記憶にない顔が視界全てを覆った。

 碧い瞳に、白すぎる肌の色。しかし、俺から見て右の頬には小さな古傷が残っている。刹那に全てを見ることはできなかったが、まるで何かの神話で登場しそうな生物。

 その姿はむしろ危険であった。心臓は限界まで跳ね上がり、頭が真っ白になって呼吸の仕方さえも忘れる。人間世界の道理から逸脱した美貌を有していたとしても、見ず知らずの人間のような顔がコンマ一秒にも満たないような速度で現れる。声にならない悲鳴ですら、喉が押しつぶされるようで空気を震わせることは無かったものの、エコーの掛かったような悲鳴は、脳裏で永遠に繰り返されているみたいだ。

 __驚きのあまり足がもつれて身が左方向に崩れ始めた。受け身を取る余裕すらない程の混乱が収まらないうちの出来事だ、左腕、足、続けざまに焼けるような痛みが全身に走る。

 双眸は既に閉じ切っていた。この痛みに堪えんとする生物的な本能に弄ばれ、開眼せよとの無理難題を受け流していた。全くの有難迷惑であるが、確かにこの痛みの中更なる情報を入れることは避けるべきことだ。

 兎にも角にも、情けなく俺はコンクリートに体を打ち付けてしまった訳である。この程度なら、数秒でもすれば立ち上がれるだろうが...。それよりも、あの生物は...?

 「あぁーあ。最近の普通軍人(肉壁)ってのはこうも脆弱なモノなの?」

 軽蔑。罵倒よりはむしろ、その状況を考えれば納得のいくものだ。

 しかし、いくら何でも理不尽ではないだろうか。確かに、戦場には"理不尽"という一単語を持ち込むことは原則厳禁で...いや待て、"普通軍人"?

 「...はぁ、さては......。」

 「言いたいことがあるのなら、目くらいは開けたらどう?」

 ...全く、全く無礼な奴め!......苛立ち、いや怒りがこみ上げそうになってくるが、これで怒りをあらわにしてしまっては奴の思うつぼだろう。人間としての尊厳、プライドは、奴のような"機械"になるべくして破壊されてはならない!

 強い意志の現れなのかはいざ知らず、奴の軽蔑が耳の骨に染み付くほどに震えた時、或いはその少し後に、瞳を深く閉ざしていた両瞼が震えるように動く。

 風はかなり吹いている。おまけに、冷たいときた。しかし、この震えは冷風から来るものでも、ましてや外気温が原因ではない。

 「...おい。」

 「それじゃぁ、私も持ち場に__」

 立ち上がってから、首根っこを掴もうと動き出すのにさほど時間はかからなかった。それよりも、刹那的であると表現した方が正しいとも思える速度で、俺は奴の後方およそ30センチへ迫る。

 このクソッタレ。後ろ姿からじゃまるで顔は見えないが、機械のように表情一つ変えやしないのだろう。もしこれが人間であったのならば、正しき生命を持つ生物であったのなら......。

 「無茶は、しない方が良い。」

 冷徹ながらも鋭い声色。邂逅した時と、まるで同じような声。

 その声が耳に染み付くよりも、意識と肉体が正確に結びつくよりも速く、彼女は幻影を残さないまま視界から消失した。

 またか。と、ポツリと独り言を零す。

 その独り言は、諦めと言うよりも羨望だ。眼差しを向けることは叶わないが......。

 反応するよりももっと先に、首に強い圧迫感が感じられた。体温もクソも全くない、粗悪な合金のような冷たさを持つ手のような何かによって、締め付けられているのだろうか。

 「っぁ...」

 「__一つ、忠告を残しましょうか?人間様。」

 彼女の加虐的(サディスティック)な瞳は、真っ直ぐ俺の瞳を捉え続けていた。まるで捕食者か審問官のように、恐怖を植え付けるためだけに造り出され、現に恐怖を植え付けるかのように使われている。

 人間に服従すべき存在ごときが、逆に人間を使役しようと試みている......。

 __そのような考えは、一瞬間に捨てられた。

 「君は、"軍隊"に縛られているのかもしれない。けどね、私達は__」

 首を捉えていない、かつ白く染まり切った肌色を持つ一方の腕が首を指す。今まで以上に、人間らしく、そして彼女の絶望的を示している。

 なぜなら...。

 「"首輪"に縛られているの。ふっ、貴方を殺そうとしても首輪が発動しないのは、少し疑問だけれどもね。」

 彼女は、首輪一つに全ての人生を管理されていたのだから。

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