第八話 劉原水(りゅうげんすい)視点 玉華の母の肖像
愛蘭、後宮に絵を描く ― そして、心を描く
後宮付きの絵師として愛蘭が任を受けてから、
彼女の名は、日に日に後宮の奥へと浸透していった。
噂というものは、実に正直で残酷だ。
価値あるものは、瞬く間に広まり、
同時に、妬みと警戒も引き寄せる。
「今日も、三宮を回っているそうです」
図画省の執務室で、部下がそう報告したとき、
わたしは思わず、筆を止めていた。
――休めているのだろうか。
そんな心配が、自然と浮かぶこと自体、
すでに、わたしの中で彼女の存在が特別になりつつある証だったのだろう。
だが、その時のわたしは、
それが「恋」などという分かりやすいものだとは、微塵も思っていなかった。
美しい人間には慣れている。
好意を向けられることにも、慣れきっている。
だからこそ、
人を好きになる感情には、どうにも鈍くなっていた。
◆ ◆ ◆
愛蘭が描いた、幼き皇女――玉華の母の肖像。
それを初めて見せられた時、
わたしは言葉を失った。
そこにいたのは、
記録の中の「端正な妃」ではない。
わたしの記憶の奥底に眠る、
柔らかく笑い、幼い妹の頭を撫でていた、あの母の姿だった。
(……よくぞ、ここまで)
胸の奥が、熱を帯びる。
玉華が、あの絵の前で泣いたと聞いたとき、
わたしは、胸を締めつけられるような思いがした。
そして同時に、
深い感謝と、抑えきれない安堵が込み上げた。
妹の心を救ってくれたのは、
薬でも、言葉でもない。
一枚の絵だった。
それを描いたのが、愛蘭だった。
――それだけで、十分すぎるほどだ。
◆ ◆ ◆
数日後。
玉華が、突然、図画省に現れた。
「原水さま!」
幼い足取りで駆け寄ってくる姿に、
役人たちが一斉に硬直する。
「……殿下」
わたしがそう呼びかけると、
玉華は、むっと頬を膨らませた。
「だめ。ここでは、いつもどおりでいいって言ったでしょう?」
「……そうだったな」
苦笑しながら、しゃがみ込む。
「今日は、どうした?」
「愛蘭に、会いに来たの」
即答だった。
その名を聞いた瞬間、
胸の奥が、僅かに跳ねる。
「今は、後宮に呼ばれているはずだ」
「むぅ……」
玉華は不満そうに唇を尖らせ、それから、にやりと笑った。
「でもね、原水さま」
「なんだ?」
「愛蘭は、わたしの大切な人です」
不意を突かれ、言葉を失う。
「お兄さまでも、譲れません」
「……お兄、さま?」
一瞬、呼吸が止まった。
玉華は、わざとらしく首を傾げる。
「だって、そうでしょう? 原水さま」
――気づいているのか。
それとも、ただの子どもの勘か。
どちらにせよ、
わたしの心を見透かされたようで、居心地が悪い。
「愛蘭はね」
玉華は、誇らしげに言った。
「絵で、人を生き返らせるの」
その言葉に、
胸の奥が、また静かに揺れた。
◆ ◆ ◆
その夜、張玉寧と酒を酌み交わしていた。
「例の絵だがな」
張玉寧は、杯を傾けながら言う。
「東国の技法ではない。
かといって、今までの西洋画の模倣でもない」
「……ああ」
「最近、西洋で流行っているという話を聞いたことは?」
彼は、意味ありげに続ける。
「東国と西洋の様式を融合させた、新しい芸術。
名を――アール・ヌーヴォーと言うそうだ」
わたしは、はっとした。
「曲線を生かし、自然と人を一体として描く……?」
「そうだ。
彼女の線には、それに近いものがある」
盃を置き、張玉寧は静かに笑った。
「無自覚で、新時代を描いているのか、知っていてその絵を描いていたのか?
どちらにしても才能ある娘だ」
「……だが、それこそが」
わたしは、思わず言っていた。
「この国の芸術に、今、最も必要なものだ」
張玉寧は、ちらりとこちらを見る。
「殿下」
「……なんだ」
「それは、芸術への期待か。
それとも――彼女自身への思いか?」
言葉に、詰まる。
答えは、出ない。
ただ一つ、確かなのは――
彼女の描く絵を、
そして、彼女自身を、
もっと知りたいと思っているという事実だった。
◆ ◆ ◆
人に好かれることには、慣れている。
だが、人を想うことには、慣れていない。
妹の心を救った絵師。
後宮に新しい風を吹き込む異端。
そして――
わたしの心を、静かに揺らし続ける存在。
それが恋なのか。
芸術への陶酔なのか。
今は、まだ、分からない。
だが――
あの娘が描く未来を、
この国で、最後まで見届けたい。
そう思っている自分を、
否定する気にはなれなかった。
劉原水は、
今日もまた、知らぬふりをして、
その想いを胸の奥にしまい込む。
絵が描く真実と同じように、
心もまた、
少しずつ、輪郭を持ち始めていたのだから。




