第七話 愛蘭(あいらん)とパリス・グリーンの壁面
塗られた沈黙 ― 緑の壁の真実
◆ ◆ ◆
宋翠香の病の原因が、壁の緑色にあるパリス・グリーン――別名毒の緑。
その事実は、重く、静かに後宮の奥へ沈められた。
劉原水は、表立って動けない。
医官たちも、口を噤んでいる。
「……つまり」
図画省の一室で、愛蘭は低く言った。
「調べるのは、私一人ということですね」
「そうなる」
劉原水は否定しなかった。
「だが、慎重にだ。
後宮で“誰かが意図的に毒を使った”などと知られれば、
悪評が広がり、大勢の首が飛ぶ」
愛蘭は、胸の内で苦く笑った。
(もう、広がっている)
後宮は、悪意に満ちている。鬱積した女性たちの苛立ちが広がる世界だ。
一度、噂が広がればたちまち、悪評が悪評を呼ぶ。
そこに真実があろうとなかろうと、悪意が本当のことになってしまう。
◆ ◆ ◆
再び、宋翠香の居室。
今回は「壁画の補修と写生」という名目だった。
部屋に入った瞬間、
愛蘭は、空気の違いを感じ取った。
(……人が、増えている)
控えの侍女が、以前より多い。
視線も、どこか硬い。
「愛蘭様」
年嵩の女官が、一歩前に出る。
「本日は、壁に触れられるのはお控えください」
「……なぜ?」
「宋側室様のお身体に障りますゆえ」
丁寧だが、有無を言わせぬ口調。
(止めにきた、わね)
愛蘭は、素直に頷いた。
「承知しました。
では、絵の構図を確認するだけにいたします」
筆も紙も出さず、
ただ、室内を見回す。
そして――
気づいた。
(……一部、塗り直されている)
壁の隅。
花緑青の色味が、わずかに違う。
古い層の上から、別の緑が重ねられている。
(隠した……?)
そのとき。
「――失礼いたします」
軽やかな声が、室内に響いた。
振り向くと、
華やかな衣をまとった女性が立っていた。
「徳妃様……」
侍女たちが、慌てて頭を下げる。
愛蘭も、礼を取った。
「ご機嫌麗しゅうございます」
「ええ」
徳妃は、にこやかに微笑む。
だが、その視線は――
鋭く、愛蘭を測っていた。
「あなたが、最近評判の絵師ね」
「恐れ入ります」
「宋翠香は、昔から身体が弱いのよ」
何気ない口調。
「壁の色など、関係ありませんわ」
(……牽制)
愛蘭は、静かに答えた。
「色は、人の心と体に影響を与えます」
「まあ」
徳妃は、扇で口元を隠す。
「絵師というのは、ずいぶん怖いことを言うのね」
笑顔の裏で、
はっきりと告げている。
――これ以上、踏み込むな。
◆ ◆ ◆
その夜。
愛蘭は、別の場所を訪れていた。
後宮の隅にある、小さな作業場。
そこには、装飾を担当する下働きの女たちが集まる。
「……壁を塗ったのは、いつ?」
愛蘭の問いに、
一人の老女が、視線を伏せた。
「三月ほど前です」
「誰の指示?」
「……」
「責めるためじゃない」
愛蘭は、声を落とす。
「宋側室様は、このままでは死んでしまう」
沈黙。
やがて、老女が震える声で答えた。
「徳妃様付きの女官が……『新しい色を使え』と」
「顔料は?」
「都から来た、舶来品だと……」
――パリスグリーン。
(やはり)
「その後、体調が悪くなった?」
「……はい」
老女は、泣きそうな顔で続けた。
「でも、誰も……壁面が原因だとは、口に出せません」
◆ ◆ ◆
翌日。
愛蘭は、劉原水に報告していた。
「徳妃が、関与している可能性が高い」
「だが、直接の証拠は?」
「ありません」
愛蘭は、正直に言った。
「命令は口頭。顔料も、ただの“舶来の美しい緑”」
劉原水は、腕を組む。
「だが、動機は?」
「……宋翠香は、帝の覚えがよかった」
それだけで、十分だった。
後宮では、いつでも
“殺意”は、常に薄く漂い、“排除”は、静かに行われるのだ。
「どうするつもりだ?」
劉原水が問う。
愛蘭は、静かに答えた。
「絵で、証明します」
「……絵で?」
「はい」
毒も色を持っている。
ならば――
「その色が、人を壊すことを、
誰の目にも分かる形で大勢の前で示します」
劉原水は、わずかに目を細めた。
「まさか、帝の前でか、危険すぎる」
「危険には慣れています」
愛蘭は、微笑んだ。
後宮絵師とは、ただ、美を描く者ではない。
――真実を、色にする者だ。




