第六話 劉原水(りゅうげんすい)視点 愛蘭との出会い
――愛蘭との出会い、そして揺れる心
後宮という場所は、いつ訪れても独特の緊張が漂っている。
華やかで、静寂で、そして底知れぬ闇。
政治の場とも、戦場とも異なるが、確かにここは――争いの園だ。
その日、わたしは一人の若い絵師を伴い、西後宮へと向かっていた。
名を、愛蘭という。
図画省の試験において、異端と呼ばれながらも合格を勝ち取った娘。
西洋画を描く、しかも女性――それだけで、後宮では十分すぎるほどの波紋を呼ぶ存在だ。
後宮にも絵師はいるが、それは宦官であり、東洋画である。
朱色門を彼女がくぐる直前、わたしは彼女の横顔を見て、ふと足を止めた。
――不思議な感覚だった。
淡い色の髪。
東国の者とは異なる骨格。
しかし、決して浮いてはいない。
まるで、西洋の絵画から、そのまま抜け出してきたかのような――
現実離れした美しさ。
いや。
正確には、美しいという言葉では足りなかった。
そこには、絵と同じ匂いがあった。
描かれる側ではなく、描く者の気配。
世界を観察し、切り取る者の静かな眼差し。
その瞬間、わたしは自覚した。
自分が彼女に「興味」を抱いていることを。
◆ ◆ ◆
後宮に入れないわたしの代わりに、宦官の高宗からの報告を聞いた。
貴妃・林蘭沁の前で、愛蘭が筆を取る様子を、高宗は少し離れた位置から見守っていた。
彼女は、怯えも、媚びも見せない。
後宮の空気に飲まれそうになりながらも、絵を前にした途端、別人のように静まる。
――描く者の顔だ。
線が走り、影が落ちる。
平らな紙の上に、立体が生まれていく。
西洋画特有の遠近と陰影。
だが、それだけではない。
林蘭沁という女が纏う、権力と警戒、その奥にある孤独までが、絵の中に封じ込められていた。
見事だった。
◆ ◆ ◆
報告を聞いても、わたしは、表情を変えなかった。
第三皇子として、図画省の責任者として、冷静であるべきだからだ。
しかし――内心は違った。
胸の奥が、静かに、だが確かに熱を帯びていた。
――この娘の絵に、賭けてみたい。
東国の芸術の未来を。
固定化し、形骸化しつつあるこの国の美を、もう一度、息づかせる希望として。
それが、純粋な使命感だったのか。
それとも、彼女自身への強い関心だったのか。
その時のわたしには、まだ分からなかった。
◆ ◆ ◆
図画省で張玉寧と並んで回廊を歩いた。
「……殿下。ずいぶん、あの絵師を気にされているようですね」
何気ない一言。
だが、妙に胸に刺さった。
「才能ある者を、見ておきたいだけだ」
そう答えたが、張玉寧は、わずかに笑った。
「それは、芸術への関心なのか。
それとも――美しい者への別の感情なのか」
「張玉寧」
「失礼。ですが、あの娘の絵は、確かに特別です」
彼は歩みを止め、遠くを見やった。
「ご存じですか。
近年、西洋では、東国の品が妙に流行っているそうです」
「……ああ、聞いたことはある」
「陶器を輸送する際、割れ防止に使っていた東国の古い版画。
あれが、西洋で評判になったとか」
わたしは、思わず足を止めた。
「本来は捨てられるはずのものが、か?」
「ええ。
彼らはそこに、異国の線と余白の美を見出した。
結果、“東国趣味”なる流行が起きたそうです」
――皮肉な話だ。
我が国では価値を失ったものが、海を越え、賞賛される。
「実は、二十年ほど前から、フラン人を中心に、
西洋の芸術家たちが緑港伯領を訪れていました」
「都ではなく、緑港を?」
「ええ。
正式な学問ではなく、生活の中の美を学ぶために」
だからこそ、最近になって、ようやくその波が都に届き始めたのだ。
「そして今、西洋では――
東国と西洋が融合した、新しい芸術様式が生まれています」
「……名は?」
「アール・ヌーヴォー、と」
聞き慣れぬ響き。
だが、不思議と、あの娘の描く線が脳裏に浮かんだ。
「愛蘭は……それを、知っているかもしれませんな」
張玉寧の言葉に、わたしは黙り込んだ。
――確かめてみたい。
彼女が、どこまで見ているのか。
何を学び、何を描こうとしているのか。
それは、芸術への探究心なのか。
それとも、一人の女性への関心なのか。
まだ、答えは出ない。
◆ ◆ ◆
ただ一つ、確かなことがある。
あの日、図画省で筆を走らせる愛蘭の姿に、
わたしは、確かに見惚れていた。
それが恋なのか、
それとも、新しい芸術への感動なのか――
今は、まだ、名を与えるには早すぎる。
だが、この揺らぎこそが、
東国の芸術が再び動き出す証なのだと、
わたしは、どこかで信じている。
いずれ、確かめよう。
彼女の描く世界と、その瞳の奥にあるものを。
――未来は、すでに、あの娘の筆先に宿っているのだから。




