第五話 愛蘭(あいらん)、後宮での初日
後宮初日、愛蘭、女の園に入る!
試験に合格した愛蘭は、住まいを宮中の宿舎へと移動した。
図画省の役人は三食が支給された。
愛蘭の生活も大幅に改善されたが、昼食は思ったよりは質素だった。
白米に、薄味の菜の炒め物。
だが、ここ数か月、ろくに温かい食事をとっていなかった愛蘭にとっては、それだけで胸が満たされるようだった。
箸を置いたころには、お腹が満たされていた。
「午後からは後宮へ行ってくれ。わたしは中に入れないから、後宮の担当者と打ち合わせてくれ」
そう告げたのは、劉原水だった。
図画省に勤める美形の若い官吏であるが、この省の実務を取り仕切る大人物である。
後で知ったことだが、整った顔立ちから、宮中の女性たちに人気が高いらしい。
「心しておけ。あそこは……絵の腕だけでは、生き残れぬ場所だ」
その言葉の重みに、愛蘭は小さく息を呑んだ。
「……はい」
分かっている。噂だが、怖い話をいくつも聞いたことがある。
けれど、今さら引き返すことはできない。
◆ ◆ ◆
午後、王宮の奥へと進むにつれ、空気が変わっていった。
人の数は減り、音も少なくなる。
代わりに、どこか甘く、濃い香の匂いが漂ってきた。
やがて現れたのは、朱塗りの巨大な門だった。
昼の光を受けてなお、鈍く艶めく赤。
それは、外界と内界を隔てる、はっきりとした境界線だった。
劉原水が門番に簡単な説明をすると、門は軋む音を立てて開かれる。
すでに待っていた侍女が、愛蘭を一瞥し、静かに一礼した。
「こちらへ」
その声は柔らかいが、どこか感情がない。
――後宮だ。
愛蘭は胸の奥で、そっと息を整えた。
◆ ◆ ◆
侍女に導かれ、奥へ、奥へと進む。
回廊は長く、庭園がいくつも続いている。
池に浮かぶ蓮、風に揺れる柳、色鮮やかな花々。
美しい。
けれど、なぜか落ち着かない。
視線を感じるのだ。
どこからともなく。
姿は見えなくても、確かに、見られている。
――値踏み、だ。
西後宮と呼ばれる大きな建物が見えてきたとき、愛蘭は、知らず背筋を伸ばしていた。
侍女と二人で中へ入ると、磨かれた床が静かに音を返す。
そのとき――
「噂の絵師は、この娘かしら?」
澄んだ声が、空気を切り裂いた。
愛蘭が顔を上げると、そこに立っていたのは、優雅な衣をまとった女性だった。
貴妃・林 蘭沁。
艶やかな黒髪。
宝石のように輝く瞳。
微笑みひとつで、周囲の空気を支配する存在。
この国で、最も皇帝に近い女のひとり。
「……はい。愛蘭と申します」
声が震えないよう、必死に抑える。
「わたくしは、林 蘭沁よ。あなた、異国の血が流れているのかしら、綺麗な顔立ちをしているのね。それにしてもずいぶん、若いのかしら」
蘭沁は、愛蘭を頭の先から足元まで、ゆっくりと見た。
――逃げ場のない視線。
「どこの国の人でもいいわ。とにかく、わたくしの肖像を綺麗に描ける者を探していたの。
張玉寧が、面白い絵師がいると申していたから楽しみにしていたのかしら」
その名を聞いて、愛蘭は小さく頷く。
「見せてもらえるかしら?」
拒否は許されないが、ここは絵の実力を見せるチャンスでもある。
愛蘭は画帳を広げ、蘭沁の前に立った。
◆ ◆ ◆
描き始めると、不思議と心は静まった。
光は、右上の窓から差し込んでいる。
黒髪は光を吸い、わずかに青みを帯びる。
肌は白いが、冷たくはない。
――美しい人だ。
だが、美しいだけの絵では物足りない。
もう一工夫が必要だ。
微笑みの奥に隠された疑惑的な魅力。
この笑みを引き出すなら、誰の笑顔が似合うか?
そうだ! 答えは出た。
モナリザのような謎の微笑みが彼女には合いそうだ。
視線の端に宿る、警戒を隠した微笑。
それらを、線と影に落とし込んでいく。
周囲では、西後宮の侍女たちが、息を潜めて様子を見ていた。
下書きを終えたところで、絵を差し出す。
蘭沁は、それを見た瞬間――
ふっと、目を大きく見開いた。
「……本当に、わたくしがいるみたいかしら」
指先で、そっと紙に触れる。
「なんて、不思議なの……かしら」
ざわ、と空気が動いた。
「平らな紙なのに、絵の中のわたしがじっとわたしを……見ている感じがするかしら」
囁きが、広がる。
愛蘭は、胸の奥で小さく拳を握った。
――アカデミーで学んだことが、ここで生きた。
――家を追われたわたしでも、役に立てる場所がある。
だが、その喜びは、同時に――
後宮という場所での「目立つ」という危険をも意味していた。
◆ ◆ ◆
翌日。
愛蘭は、正式に後宮専属の絵師として任命された。
再び、あの朱塗りの門の前に立つ。
今日は、もう「仮採用の画家」ではない。
門をくぐった瞬間、世界が切り替わる。
華やかな庭園。
香の匂い。
玉を踏む音。
妃たちの侍女が行き交う気配。
すべてが、美しく、閉ざされている。
「絵師の愛蘭様ですね?」
一人の侍女が歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
「本日より、後宮の御用絵師として、赤南院に居を構えていただきます」
案内された部屋は、質素だが明るかった。
窓から差す光は柔らかく、絵を描くには申し分ない。
部屋の隅に置かれた、古い筆置き。
それを見つめた瞬間、胸が、きゅっと締めつけられた。
「……お父様。アンソニー」
フランで出会った大切な人のことを、心の中で呼ぶ。
「わたし、このチャンスを無駄にしません」
だが――
喜びと同時に、背筋がひやりと冷える。
ここは後宮。
美を競い、寵愛を争う、女たちの園。
絵師といえど、妃たちの顔を描くということは、
その優劣を、無言で示す力になりうる。
「これから……何が起きるのかな」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
それでも、恐れよりも、大きな期待があった。
――生きるためだけの絵ではない。
――未来を切り開くための芸術だ。
市場で張玉寧と出会った、あの日から続く道。
愛蘭は、後宮の深い朱色を見上げ、静かに決意した。
この場所で、
異端と呼ばれた西洋画で――
わたしは、生き抜く。
こうして、家を追われたフラン人の血が流れるハーフ女性・愛蘭の後宮絵師としての物語が始まるのだった。




