第三十二話 婚約後の日常と、小さな甘さ
婚約後の日常と、小さな甘さ
婚約してからの日々は、思っていたよりもずっと静かで、そして甘かった。
劇的な変化があったわけではない。
政務は相変わらず忙しく、後宮も、図画省も、わたしを必要としていた。
けれど――
日常の、ほんの些細な瞬間が、少しずつ違って見えるようになった。
「愛蘭、今日は戻りが遅いな」
夕刻、執務室を訪れると、原水様は書簡を閉じてそう言った。
責めるでもなく、ただ心配するような声。
「すみません。色の調合に少し時間がかかってしまって」
「……無理はするな」
それだけの会話。
けれど、その一言が胸に温かく染みる。
以前なら、立場を考えて距離を取っていた。
今は――違う。
帰り際、誰も見ていないのを確かめて、そっと袖を引かれる。
「……少しだけ」
「はい」
それだけで、十分だった。
◇
朝の時間も、変わった。
同じ卓で食事をとり、同じ湯気を眺める。
わたしが紅茶を注ぐと、原水様は必ず礼を言う。
「ありがとう」
「いえ」
そのやり取りが、なぜか嬉しい。
「……婚約したのに、まだ敬語なのだな」
ある朝、原水様が少し困ったように言った。
「え……」
「もう少し、気楽でもよい」
頬が熱くなる。
「……急には、難しいです」
「そうか」
そう言って笑うその顔が、好きだった。
無理に変えようとしない。
わたしの歩幅に合わせてくれる。
――この人を、選んでよかった。
◇
夜、仕事を終えて庭を歩くことも増えた。
灯りに照らされた回廊。
静かな風。
「愛蘭」
「はい」
「……手を」
差し出された手に、そっと指を重ねる。
婚約しても、相変わらずぎこちない。
けれど、それが心地いい。
「……こうしていると、落ち着くな」
「……わたしもです」
肩が触れる距離。
それだけで、胸が満たされる。
甘い言葉は少ない。
派手な愛情表現もない。
それでも――
確かに、愛されていると感じられる日々だった。
◇
そうして季節が巡り、
わたしたちは、夫婦になった。
式は静かに、けれど温かく。
祝福は多く、祝儀よりも笑顔が多かった。
それから五年――
気づけば、世界は大きく変わっていた。
五年後 ―― 緑港公爵邸にて
海の見える窓辺で、わたしは椅子に腰かけていた。
遠くで波が砕け、白い帆がゆっくりと進んでいく。
ここは、緑港公爵邸。
かつての伯爵領は周辺領と統合され、
今では――緑港公爵家。
そして、わたしはその妻になった。
「……風が強くないか?」
背後から、聞き慣れた声。
「大丈夫です」
振り返ると、原水――今は緑港公爵となった夫が、穏やかな顔で立っている。
「無理はするな」
そう言って、自然にわたしのお腹へ視線を落とす。
そこには――新しい命が宿っていた。
「少し休みますね」
「ああ」
隣に座り、肩を寄せてくる。
昔と変わらない距離感。
けれど、今はそれが当たり前のように感じられた。
「かあさまー!」
ぱたぱたと足音がして、小さな影が飛び込んでくる。
「愛凛、走らないで」
「だってー!」
足元にしがみついてきたのは、幼い女の子。
愛凛。
わたしたちの、一番上の大切な娘。
「今日は海がきれいだね」
「うん! おふねがいっぱい!」
きらきらした目で、窓の外を見る。
その頭を、原水がそっと撫でた。
「将来は、港を守るか?」
「うーん……えをかく!」
思わず、笑ってしまう。
「わたしに似ましたね」
「……そうだな」
原水は、どこか誇らしげだった。
◇
夕暮れ。
三人――いや、もうすぐ四人になる家族で、同じ景色を眺める。
(……あの頃、想像できただろうか)
外交の渦中で、悩み、迷い、選び取った未来が、
こんなにも穏やかで、満ち足りたものになるなんて。
「愛蘭」
「はい」
「……幸せか?」
その問いに、迷いはなかった。
「はい」
愛凛の小さな手を握り、もう一方でお腹を撫でる。
「とても」
「それなら良かった。わたしも同じ気持ちだ」
原水は、静かに微笑んだ。
海風が、家族の影をひとつに重ねる。
――不器用で、静かで、
それでも確かな幸福。
こうして、わたしたちの物語は、
今日も、穏やかに続いていくのだった。




