第三十話 劉原水視点 愛蘭への釣書
愛蘭の結婚話
帝都へ戻ってからの日々は、驚くほど穏やかだった。
朝、政務に追われ、昼には奏上書を捌き、夕刻には愛蘭と並んで庭を歩く。
特別な出来事など、何もない。
だが――それが、何よりも尊い日常だった。
(……これが、守りたかったものか)
風に揺れる木々を眺めながら、そう思う。
愛蘭は相変わらず忙しく、図画省と後宮を行き来しながらも、疲れた様子を見せなかった。
「原水様、今日は顔色がよろしいですね」
「……そうか?」
「ええ。肩の力が抜けています」
彼女はそう言って、微笑んだ。
その笑顔を見るだけで、胸の奥が温かくなる。
――この日々が、ずっと続けばいい。
そう願ったのは、決して贅沢ではないはずだった。
◇
だが、その呼び出しは、唐突だった。
「第三皇子・劉原水、参れ」
帝の使者の声は、静かだが逆らいようのない響きを帯びている。
向かった先は、帝の執務室。
政治の中枢であり、ここで多くのことを決める場所である。
執事官を通して中に入ると、父である帝が待っていた。
「来たか」
「はい、父上」
帝は巻物を手にし、こちらを一瞥する。
「緑港伯領での一件、見事であったな」
「……恐れ入ります」
「特に――」
帝は巻物を軽く叩いた。
「愛蘭の働きがな」
胸が、嫌な予感でざわついた。
「後宮画家としてだけでなく、外交的にも大きな成果を挙げた。
結果、どうなったと思う?」
「……」
「釣書だ。三件ある」
机の上に置かれた三通の書状。
どれも、由緒正しい家の紋が押されている。
「緑港伯の婿を狙っておるのだろう。分かりやすい話だ」
「……父上」
「これは命令だ」
帝は淡々と言った。
「お前が対処せよ。緑港伯領での褒美だ。内容は任せる」
あまりの出来事に――頭が、白くなった。
◇
執務室に戻っても、気持ちは落ち着かなかった。
(釣書……愛蘭に……?)
あの穏やかな日々の中に、そんなものが入り込む余地があったとは。
「……張玉寧」
呼び出したのは、長年仕える腹心だった。
立派な衣をまとった中年の男は、静かに一礼する。
「お悩みの様子ですな」
「……分かるか」
「顔に出ております」
苦笑しながら、原水は事情を話した。
「……愛蘭に、縁談が来た」
「ほう、まあ、当然かと」
「三件だ。どれも有望だが……」
言葉が、続かない。
「好きな女性に、他の男を紹介するなど……どうすればいい?」
張玉寧は、少し考えてから答えた。
「殿下。心のままに、選ばれるのがよろしいかと」
「……心のままに?」
「愛蘭様ご自身に、です」
「……それで、よいのか」
「縁談とは、本来そういうものです」
原水は、机の上の釣書を見る。
一枚目。
公爵家三男、二十五歳。容姿端正、社交的。条件は申し分ない。
二枚目。
侯爵家次男。最近力を付けている、野心家。
三枚目。
伯爵家次男。国で五本の指に入る商会を運営する実業家。
(……誰もが、緑港伯を見ている)
愛蘭自身ではなく。
◇
その日の夕刻、原水は意を決した。
図画省での一日の作業を終え、帰宅する愛蘭を呼び止めた。
二人はテーブルに向かい合って座る。
「……愛蘭」
「はい、なんでしょう」
「その……愛蘭宛に釣書が来ている」
「……は?」
彼女の声が低くなる。
「どうするか……」
愛蘭がじっと原水を睨む。
「馬鹿!」
即答だった。
「……え?」
「どうするか、じゃありません」
愛蘭は腕を組み、はっきりと言う。
「そんなの断ってください」
「……帝からの依頼でな。断るのは難しい」
溜息混じりにそう言うと、愛蘭は一瞬、悲しそうな顔をした。
「……そうなのですか、原水様はそれでいいのですか……」
原水は、釣書を愛蘭の前に差し出した。
「……すまない。この中から、選んでくれ」
「……これは、命令ですか?」
「そうなる、この中の相手と結婚してくれ」
だが、原水として苦渋の決断であった。
◇
愛蘭は、一枚目を開く。
「公爵令息……条件は良いですね」
淡々とした声。
「でも……好みではありません」
二枚目。
「侯爵令息……見た目は良いですけど……遊んでいそうですね」
三枚目。
「伯爵令息……お金持ち。でも……お金だけでは愛は買えません」
彼女は、首を振った。
「わたしが好きなのは……」
原水は胸が、締めつけられる。
――その時。
「……?」
愛蘭は、もう一枚釣書があることに気づいた。
「……これは」
封を切り、目を通した瞬間。
ぽろり、と瞳から雫が流れ落ちた。
「……愛蘭?」
彼女は、涙を浮かべたまま、顔を上げる。
「……これが、いいです」
差し出された釣書。
そこに記されていた名は――劉原水。
そして、短い文。
『愛蘭。愛している。
わたしと、結婚してほしい』
◇
原水は、気づけば彼女の前に膝をついていた。
「……選んでくれて、ありがとう」
震える声で、はっきりと告げる。
「わたしと、結婚してほしい」
愛蘭は涙を拭い、微笑んだ。
「はい、喜んで」
静かだが、確かな声。
「わたしは、原水様をお慕いしています」
その瞬間、胸の奥に溜まっていた不安が、すべて溶けていった。
――こうして。
平凡穏やかだった日々は、
確かな未来へと、静かに形を変えたのだった。




