第二十九話 愛蘭(あいらん)の元をアンソニーが訪ねる。
アンソニーとの話し合い
フラン王国大使館の馬車が、緑港伯領の官庁街に姿を現したのは、穏やかな昼下がりだった。
潮風に混じる革と香油の匂い。
その馬車を見ただけで、愛蘭は来訪者が誰なのかを悟った。
「……アンソニー」
名を呟くと、胸の奥に小さな波が立つ。
かつて自分を支え、守ろうとしてくれた人。
そして――決して結ばれなかった人。
◇ ◇ ◇
応接の間には、三人だけが集まった。
劉原水、愛蘭、そしてアンソニー=ド=フラン。
いつもと変わらぬ優雅な立ち姿だが、その表情には、どこか晴れやかな諦観が漂っていた。
「その後は大丈夫? 愛蘭」
「……ええ、おかげさまで」
言葉は穏やかだが、どこか距離を測るような響きがあった。
アンソニーは一礼し、劉原水へと向き直る。
「第三皇太子殿下。まずは礼を言わせてほしい」
「礼?」
「今回の件です」
彼は静かに語り始めた。
「ブリテン帝国の策謀は露見し、東国への深入りは当面不可能になった。
そして結果的に――フラン王国は、東国に“貸し”を作る形になった」
劉原水は黙って聞いている。
「外交とは、力だけでなく、信義と恩がものを言う。
今回、我々にとってブリテン帝国の影響力を下げられたのは、かなり大きい」
「……そうか」
「あなたの判断は正しかった」
アンソニーは、はっきりとそう言った。
◇ ◇ ◇
一拍置いて、アンソニーは愛蘭へと視線を戻す。
「そして――愛蘭は手柄を立てた」
「……わたしは」
「謙遜はよしてくれ」
柔らかな笑み。
「後宮画家としてだけでなく、一人の人間として、東国を守った。
それは、誇るべきことだ」
愛蘭は、思わず俯いた。
「……ありがとうございます」
アンソニーは、その様子を見て、小さく息を吐いた。
「……さて。本題に入ろうか」
空気が、わずかに引き締まる。
「私は、母国へ帰る」
その言葉は、静かだが、はっきりとしていた。
「帰国……ですか?」
「うん。フラン王国本国からの正式な呼び戻しがあってね」
アンソニーは肩をすくめる。
「今回の件で、私は“十分に働いた”らしい」
冗談めかした口調だったが、目は真剣だった。
「そして――」
彼は一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いた。
「……愛蘭。私と一緒にフランに戻る気はないかい」
愛蘭は小さく首を左右に振る。
「それはもう、ないです。わたしには、この国でやらなければならないことが残っているので」
アンソニーはにやりと口元を緩める。
「それは、劉原水殿下のことだね」
その言葉に、愛蘭は息を呑んだ。
「……隠すつもりもないだろう?」
アンソニーは楽しそうに頷く。
「原水殿下を助けるために動いた、あの時の愛蘭の姿。
あれを見れば誰でもわかるよ」
愛蘭は、諦めたようにゆっくりと頷いた。
「……わたしにとって原水様は特別です」
「なら、私の入る余地はないか……」
きっぱりとした断言。
「少し前までは……期待していたのだけど」
そう言って、彼は苦笑した。
「愛蘭を守ることが、自分の役目だと思っていた」
◇ ◇ ◇
アンソニーは、窓の外――港を見つめる。
「だが、今は違う」
彼は振り返り、劉原水をまっすぐに見た。
原水は小さく頷く。
「愛蘭のことは任せろ、絶対に幸せにする」
「それを聞いて安心しました」
アンソニーは満足そうに頷いた。
「両想いの二人の人生に割り込む隙はないようだからね」
そして、愛蘭へ。
「……幸せになるんだよ」
「アンソニー……」
「泣くな」
即座に遮られる。
「これは、敗北宣言じゃない」
彼は胸に手を当てる。
「愛する女性が幸せなら、わたしも幸せだよ」
◇ ◇ ◇
立ち上がり、外套を手に取る。
「東国とフラン王国の関係は、これからも続く。
また会うこともあるからもしれない」
そう言って、彼は微笑む。
「だが、その時は――」
ちらりと劉原水を見る。
「共にブリテン帝国と戦った友人として、静かに酒でも飲もう」
「……約束しよう」
劉原水は、そう答えた。
アンソニーは満足そうに頷き、扉へ向かう。
最後に一度だけ、振り返った。
「愛蘭」
「……はい」
「もし困ったことがあったらいつでも連絡して、すぐに駆け付けるから」
「ありがとう、アンソニー」
愛蘭は笑顔で答えた。
アンソニーはそれだけ言うと、踵を返し――
静かに、去っていった。
◇ ◇ ◇
馬車の音が遠ざかる。
応接の間には、二人だけが残された。
「……行ってしまいましたね」
「ああ」
劉原水は、愛蘭の肩にそっと手を置く。
「……良い奴だったな」
「ええ」
愛蘭は微笑んだ。
「でも――」
彼女は、劉原水を見上げる。
「わたしが選んだのは、あなたです」
劉原水は、静かに彼女を抱き寄せた。
「……二度と、離すつもりはない」
原水は優しく愛蘭を見つめ、愛蘭はそっと目を閉じる。
二人の影が一つになる。
潮風が、窓を揺らす。
こうして一人の男は去り、
ひとつの恋は、確かな未来へと進み始めたのだった。




