第二十八話 愛蘭と劉原水の日常
事件が終わって三日後
東国・緑港伯領の朝は、いつもと変わらぬ潮の匂いに包まれていた。
――ただひとつ、変わったことがあるとすれば。
「……原水様、あの……その……」
朝の執務室。
机を挟んで向かい合う二人の間には、昨日からずっと、言葉にできない“間”が存在していた。
「……ど、どうしたのだ、あ、愛蘭」
劉原水は平静を装っているが、指先が書類の端を無意味になぞっている。
愛蘭はというと、いつもなら迷いなく口を開くはずの彼女が、今日は視線をあちこちに泳がせている。
(……おかしい)
昨夜まで、確かに――
抱き合い、想いを告げ合い、口づけまで交わしたというのに。
「その……お茶、いれますね」
結局、愛蘭はそう言って立ち上がった。
「……あ、ああ。頼む」
二人の会話は、お互いの顔を合わせるのが恥ずかしいほど、初々しかった。
◇
湯を沸かす間、愛蘭は背を向けたまま、深く息を吸った。
(落ち着きなさい、愛蘭。恋人になっただけよ)
――“恋人になった”。
だが、その言葉が、どれほど重い意味を持つのかを、彼女は嫌というほど理解している。
湯気の向こうに、彼の横顔が見えた。
強い意志を宿す瞳。
多くの責務を背負いながら、それでも自分を守ろうとしてくれた人。
(……恋人)
その言葉を思い浮かべただけで、胸の奥がじん、と熱くなる。
「……愛蘭」
「は、はいっ!?」
呼ばれただけで、肩が跳ねた。
「……その、昨夜は……」
劉原水が珍しく言い淀む。
「……言葉が足りなかったかもしれない」
愛蘭はそっと振り返った。
「わたしは……その……君がいてくれるなら、それでいい。だが……」
彼は咳払いをして、視線を逸らす。
「……どう接すればいいのか、恥ずかしくてな、正直、わからない」
その告白は、あまりにも不器用で、あまりにも彼らしかった。
「……ふふ」
思わず、愛蘭は笑ってしまった。
「愛蘭?」
「安心しました」
彼女は湯呑を二つ持って、ゆっくりと近づく。
「実は……わたしも、同じです」
「……同じ?」
「恋人って、どう振る舞えばいいのか……わからなくて」
二人は顔を見合わせ、しばし沈黙したあと――
同時に、ふっと力を抜いた。
◇
それからの二人は、不自然なほどにぎこちなかった。
廊下ですれ違えば、なぜか同時に立ち止まり。
席を立てば、どちらが先かで一瞬迷う。
愛蘭が近づくと、劉原水は無意識に背筋を正し、
劉原水が声をかけると、愛蘭はなぜか少し早口になる。
周囲の役人たちは、そんな様子を遠巻きに見ながら、ひそひそと囁き合っていた。
「……あの二人、大勢の前で口づけをしていましたよね、何を今さら照れているのか?」
「いや……あれは恋人というより……お互いを意識して照れているのだな」
「初々しすぎる……」
そして、極めつけ。
「……原水様」
その日の午後。
執務の合間に、愛蘭は勇気を出して声をかけた。
「……手を」
「……?」
「……手を、繋いでも……いいですか?」
一瞬、劉原水の思考が停止した。
「……っ」
彼は耳まで赤くなりながら、こくりと頷いた。
そっと、指先が触れる。
次の瞬間、互いに驚いたように指を引っ込めそうになり――
慌てて、今度はしっかりと握り合った。
「……あ、あの……」
「……うん」
ただそれだけで、二人の心臓は、やけに騒がしかった。
◇
夕暮れ時。
港を望む回廊で、並んで立つ二人。
潮風が、愛蘭の髪を揺らす。
「……事件が無事に終わって、本当に良かったですわ」
愛蘭がそう言うと、劉原水は静かに頷いた。
「ああ。……君を失わずに済んだ」
その言葉に、愛蘭は胸が締めつけられる。
「……わたしも、原水様を失わなくてよかったですわ」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「……これからも、あなたの隣にいてもいいですか?」
劉原水は、はっきりと答えた。
「当然だ」
そして、照れ隠しのように付け加える。
「……むしろ、離れるつもりはない」
愛蘭は、思わず微笑んだ。
「……いつまでも一緒がいいですね」
「そうだ……愛蘭、結婚しないか?」
「え?」
夕焼けの中、二人は視線を交わす。
今度は、誰にも邪魔されることなく、そっと唇を重ねた。
不器用で、ぎこちなくて、
けれど確かに――寄り添い合う日常。
こうして、二人の新しい物語は、静かに始まったのだった。




