第二十四話 愛蘭の危機
仮面の舞踏、毒の囁き ――奪われた夜――
キャサリン嬢と愛蘭が出会ってから、数日後のことだった。
ブリテン帝国主催による舞踏会が、緑港伯領にある大使館で開かれるという知らせは、半ば当然のように受け取られた。
名目は「文化交流と友好の証」。
だが、その裏に意図があることを、愛蘭は痛いほど理解していた。
(……キャサリン嬢)
あの視線。
あの問い。
そして、劉原水殿下の沈黙。
胸の奥に沈めたはずの感情が、再び波打つ。
◇ ◇ ◇
舞踏会当日。
夜の大使館は、宝石箱のように輝いていた。
高い天井から下がる水晶灯。
磨き上げられた床に映る光。
各国の貴族と使節が、仮面の下に思惑を隠して集っている。
そして――彼女は現れた。
キャサリン=レスターナ公爵令嬢。
銀糸を織り込んだ濃紺のドレス。
肩から背にかけて流れる淡金の髪。
一歩踏み出すたび、場の空気が静まる。
(……綺麗)
認めたくないほどに。
キャサリンは、真っ直ぐに劉原水殿下のもとへ向かった。
まるで、最初からそこが自分の居場所だと知っているかのように。
「今夜は、殿下と一曲、よろしいかしら?」
微笑みとともに差し出される手。
それは、拒絶を許さない優雅な強制だった。
一瞬。
原水殿下の視線が、こちらに向く。
何かを言おうとして――
だが、言葉は紡がれなかった。
「……ええ」
その一言が、愛蘭の胸を貫いた。
音楽が流れ、二人は舞踏の輪へと消えていく。
息の合った動き。
まるで、長く連れ添ったかのような距離感。
(……仕事、よね)
そう言い聞かせる。
外交だ。
儀礼だ。
それ以上の意味はない――はずだ。
けれど。
キャサリンが殿下の耳元で囁くたび、
殿下の表情が、ほんのわずかに和らぐ。
(……嫌)
胸の奥で、はっきりとした拒絶が生まれる。
耐えきれず、愛蘭はその場を離れた。
向かった先は、ブリテン大使館の奥。
普段は立ち入らない執務区画。
だが、誰も気に留める様子はなかった。
(少し、頭を冷やそう……)
廊下の奥。
半開きの扉。
――声が、聞こえた。
「舞踏会は、順調ですな」
マイケル=フラムの声。
思わず、足が止まる。
「殿下は、予想以上に聡明だ。だが――」
別の男の声。
聞き覚えはない。だが、低く、冷たい。
「聡明ではあるが、一度、阿片の魅力に憑りつかれてしまえば、拒み切れまい」
愛蘭の背筋が、凍りついた。
(……阿片?)
「それに東国は広い。地方から静かに広げれば、表沙汰にはならない」
もう片方の聞きなれない男の声が続く。
「銀を使わずに、東国の絹、茶など我々の欲しいものが簡単に手に入る上に、東国に打撃を与えられる」
「第三皇太子が仲間になれば、すべては上手く行く」
「キャサリン嬢の手腕に期待だな」
(そんな……)
息を殺し、耳を澄ます。
「殿下は愛蘭という女に夢中のようだが――」
「それも手を打ってある」
マイケルの声だった。
「愛蘭を誘拐する、それを餌に、原水殿下を秘密裏に呼び出す」
「暴走した皇太子ほど、扱いやすいものはありませんな」
(……っ)
一歩、後ずさる。
――その時。
「誰だ」
低い声。
扉が、勢いよく開かれた。
目が、合った。
マイケル。
そして、見たことがない中年男性。
一瞬の静寂。
「……聞かれたようだな、だが、ちょうど良い」
マイケルの声は、驚くほど穏やかだった。
逃げなければ。
そう思った瞬間、腕を掴まれる。
「残念だが――」
マイケルが囁く。
「貴女には、ここで静かにしていただきます」
後ろから忍び込んできた男たちが、愛蘭を拘束し、布を口元に押し当てた。
甘く、重い香り。
(げ、原水殿下……!)
意識が、闇に沈む直前。
愛蘭の胸にあったのは、恐怖よりも原水を心配する気持ちだった。
――悔しさと。
――守りたいという、確かな想い。
こうして。
舞踏会の夜の裏で。
一人の後宮画家が、
帝国の闇を知る者たちによって、
静かに、姿を消した。
そして、この夜は、まだ――
誰にも、終わりを告げていなかった。




