第二十話 愛蘭(あいらん)とキャサリン嬢
愛蘭視点
帝の別荘兼、公務施設の執務棟には、午後の光が静かに差し込んでいた。
潮の匂いを含んだ風が、開け放たれた窓からカーテンを揺らす。
わたしは、劉原水殿下の執務室で、机に広げられた資料を見下ろしていた。
――ラファエル前派。
ブリテン帝国が近年、文化政策の一環として積極的に後押ししている芸術潮流。
「理想化された美と、死や退廃の象徴化……」
わたしは低く呟いた。
「芸術を通して、価値観そのものを塗り替える。
軍事よりも、商業よりも、長期的には恐ろしい手法です」
劉原水は、机の向こうで腕を組み、静かに頷いた。
「東国は、まだ“絵は装飾”と考える者が多い。
だが、ブリテンは違うようだな。思想を運ぶ器として使うのか?」
「はい。
フランが“自由な発想”を持ち込むなら、ブリテンは“心理への訴え”を描く……」
そこまで言った時だった。
控えめなノック音が、執務室に響いた。
「殿下。ブリテン帝国大使館より、使者が到着しております」
空気が、わずかに張り詰める。
「……誰だ?」
原水が尋ねる。
「銀髪で、右目に眼帯の中年貴族。
名は、マイケル=フラムと名乗っております」
ブリテン帝国、ついに来たか……。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「面会の申し込み、か」
原水は一瞬だけ視線を伏せ、そして言った。
「……会おう」
◇ ◇ ◇
応接室は、執務室よりも柔らかな設えだった。
だが、そこで交わされる言葉は、決して穏やかなものにはならない。
劉原水と並び、わたしは一歩後ろに立った。
ほどなくして、扉が開く。
「お久しぶりですな、劉原水殿下」
マイケル=フラム。
礼儀正しいが、底の見えない笑みを浮かべる。
「本日は、ぜひご紹介したい方がおりまして」
そう言って、彼は半歩下がった。
――その瞬間。
銀色の光が、室内に流れ込んだように感じた。
長い銀髪。
蒼い瞳。
背筋を伸ばし、気品を隠そうともしていない女性。
「キャサリン=レスターナですわ」
東国語だった。
しかも、驚くほど流暢な。
「彼女は、ブリテン帝国にて、皇族の血を引く者です」
マイケル=フラムは説明を付け加える。
わたしの……胸が、音を立てた。なぜか、彼女の存在が不安になった。
「帝都には連絡済なのですが、本日は、劉原水殿下に――
正式に、婚約のお話を申し上げたく、参りました」
マイケル=フラムの口から飛び出した婚約の言葉。
わたしの耳にその言葉が、届いた瞬間。
――なぜ?
なぜ、こんなにも、胸が苦しい。
これは外交なのだ。
政治につきものな政略結婚。
わたしには、関係のない――はずなのに。
「原水殿下、わたくしとの婚約をお願いしますですわ」
「東国語が、お上手ですね」
原水が、静かに返した。
「ありがとうですわ」
キャサリンは美しく微笑む。
「航海の間、必死に学びましたですわ。
この国を知りたいと思いましたのですわ」
……勉強した?
船の中で?
わたしは、彼女を見つめていた。
美しい。
疑いようもなく。
しかも、覚悟を持ってここに立っている。
「すぐに婚約、という話ではありません」
原水は、少しだけ間を置いて言った。
「まずは、互いを知ることから始めたい。
本当に、両国にとって益となるのか――話し合いたい」
「もちろんですわ」
キャサリンは即座に頷いた。
「そのために、わたくしはここに来ましたのですわ」
その横顔を見つめながら、原水が一瞬、言葉を失ったのを、わたしは見逃さなかった。
――見惚れている。
その事実が、胸を刺す。
(……わたしは、何を……)
なぜ、こんなにも、心が乱れる?
わたしは、後宮付きの画家。
彼は、皇族ではある。わたしは皇族の血が流れているが、皇族ではない。
立場は、最初から違う。
それなのに。
面会が終わり、二人が立ち上がった時だった。
キャサリンが、ふと、わたしを見た。
「……失礼ですが」
穏やかな声。
だが、鋭い視線。
「あなたは、劉原水殿下の――恋人かしら?」
息が、止まった。
「ち、違います」
声が、わずかに震える。
「わたしは……殿下の部下です。
仕事の、上司と部下の関係です」
それが、精いっぱいだった。
キャサリンは、静かに微笑んだ。
「そう……かしら」
だが、その瞳には、疑うような雰囲気が宿っていた。
――疑い。
そして、警戒。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
応接室に、沈黙が落ちた。
わたしは、胸に手を当てた。
(……始まってしまった)
ブリテン帝国と東国。
政治と文化。
そして――
女同士の、見えない戦いが。
緑港の海は、何も知らぬ顔で、静かに光っていた。




