閑話2 ブリテン帝国 悪毒令嬢キャサリン
キャサリン嬢の回想と決断
――ブリテン帝国・帝都より
ブリテン帝国の空は、この季節、いつも灰色だった。
厚い雲が低く垂れこめ、石造りの街並みを押し潰すように覆っている。
わたくしはその空が、昔から嫌いだった。
(……また、噂が増えたわね)
キャサリン=レスターナ公爵令嬢、二十歳。
皇帝の妹を母に持ち、皇族の血を引く者。
それが――わたくしの“すべて”だった。
社交界の広間に立てば、視線は集まる。
だが、今やそれは賞賛ではない。
好奇と、警戒と、そして――蔑み。
――悪毒令嬢。
いつの間にか、そんな呼び名まで囁かれるようになっていた。
「キャサリン様……」
侍女の声に、わたくしは窓から目を離す。
「何?」
「公爵夫人様がお呼びです」
……母、マーガレット=レスターナ。
この家で、今もわたくしの味方であろうとする、たった一人の存在。
応接室に入ると、そこには母だけでなく、見慣れぬ男がいた。
長い赤髪のブリテン帝国外交官、トーマス=マンチェスター侯爵だ。
(……ああ、聞いたことがある)
「キャサリン、座りなさい」
母の声は、疲れていた。
わたくしは黙って椅子に腰を下ろす。
この場で何が語られるか、察しはついていた。
すべては――あの時から、壊れたのだ。
◇ ◇ ◇
アリスター殿下。現在22歳。
第三王子であり、誰よりも優しく、誰よりも残酷な人。
わたくしは、彼を愛していた。
正確に言えば、“愛していると信じて疑わなかった”。
「殿下、わたくしは――」
あの日、何度目かの願いを口にした。
婚約者にしてほしい、と。
だが、返ってきたのは、はっきりとした拒絶。
「君をそのようには見られない。
わたくしは……スカーレットを愛している」
伯爵令嬢スカーレット。
穏やかで、慎ましく、わたくしとは正反対の女。
(……邪魔者は消すしかない)
そう思った瞬間、自分がどれほど歪んでいたか、当時のわたくしは気づかなかった。
暗殺未遂。
愚かで、短絡的で、取り返しのつかない行為。
しかも――失敗。
王家の名を汚したとして、わたくしは修道院へ送られた。
事実上の追放処分だった。
だが、そこでもわたくしは問題を起こした。
祈りに救いを見出せず、怒りを手放せなかった。
――そして、社交界からも修道院からも完全に居場所を失った。
◇ ◇ ◇
「……東国へ、行きなさい」
母の言葉は、疲れ切っていた。
「ブリテン帝国内では、もうあなたを守れないわ」
それは、事実だった。悪毒令嬢として評判は酷い。
「東国の皇族と婚姻できる令嬢を探している、と。
マンチェスター卿が……その候補として、あなたの名を挙げたのよ」
わたくしは、思わず笑ってしまった。
「わたくしが?
悪毒令嬢の落ちぶれ者が東国へ?」
トーマス=マンチェスターが口を開く。
「だからこそです、キャサリン嬢」
淡々と、感情のない声。
「はっきり言えば、この国でのあなたの評判は悪いかと。帝国内では、明るい未来は望めないでしょう。
ですが、東国では――誰もあなたを知らない。東国ではあなたは“王族の血を引く高貴な令嬢”なのです」
……狡猾な男。
だが、不思議と、嫌悪は湧かなかった。
(確かに……わたくしは、ここではもう自由に生きられない)
王子への想いも、憎しみも、後悔も。
すべて、この灰色の空の下に縛られている。
「……わかりました」
わたくしの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「東国へ行きましょう」
それは、逃げではない。
明るい未来への選択だ。
◇ ◇ ◇
そして今。
船は長い航海を終えようとしいる。スエズ運河を越え――
東国、緑港伯領の港に入港した。
甲板に立つと、潮の匂いが違う。
ブリテンの空とは違う。空は高く、光は柔らかい。
「……ここが、東国」
わたくしは手袋を外し、手すりに触れた。
(もう、戻れない)
ブリテン帝国の社交界には、わたくしの居場所はない。
王子への恋も、とうに終わっていた。
ならば――
(この地で、わたくしは“皇帝の血を引いた令嬢”として振舞えばいい)
悪毒令嬢ではなく。
皇子に恋する乙女でもない。
東国を楽しむ女性になればいい。
緑港の街並みを見下ろしながら、わたくしは小さく息を吸った。
ここから始まるのは、幸福か、それとも――
新たな策謀か。
それは、まだわたくし自身にも、わからなかった。
だが一つだけ、確かなことがある。
――キャサリン=レスターナは、もうブリテン帝国には戻れない。
東国の潮風が、わたくしの銀髪を静かに揺らしていた。




