第十八話 劉原水視点 愛蘭への想い
劉原水は、応接の間の壁に掛けられた一枚の風景画を、ぼんやりと眺めていた。
白い港。
淡い青の空。
そして、遠くに描かれた穏やかな海。
(……フランの画風だな)
構図の取り方、光の使い方。
それは、愛蘭の絵にもどこか通じるものがあった。
彼女は、何も言わなかった。
だが、彼女の背中は、雄弁だった。
(まったく……)
劉原水は、内心で苦く笑う。
皇族であり、外務省の人間である自分が、
他国の大使と一人の女を巡って張り合うなど――
冷静に考えれば、滑稽ですらある。
だが。
(……それでもだ)
彼は、視線を愛蘭へと移す。
まっすぐで、不器用で。
絵を描くときだけ、世界の雑音をすべて切り捨てる女。
彼女が、この場で一番自由で、
同時に、一番縛られている存在だということを、
劉原水は痛いほど理解していた。
(東国の皇族。
フラン国王の娘)
どちらも、彼女が望んだ肩書きではない。
そして、どちらも――
彼女から「逃げる」ことを許さない。
アンソニー・ド・ラ・ロシュ。
あの男の言葉を、劉原水は頭の中で反芻する。
(愛しているのは、君だけだ、か)
軽薄そうな笑みの裏に、
確かな執着と、後悔が滲んでいた。
(ああいう男は、厄介だ)
自覚がある分、なおさら。
政略と恋愛は別だと言い切り、
それでも愛蘭を手放さないと宣言する。
あれは、
「奪う」覚悟を持った男の目だった。
(……フランは、こういう人間を育てるのか)
劉原水は、知らず、奥歯を噛みしめていた。
だが、怒りより先に来たのは――
恐怖に近い感情だった。
(もし、愛蘭が……)
もし、彼女が。
フランを選ぶと言ったら。
皇族として、外務官として。
理屈の上では、止める理由はない。
血筋も、立場も、
むしろフランに戻る方が「正しい」可能性すらある。
(……だが)
劉原水は、胸の奥を、ぎゅっと掴まれたような感覚に襲われる。
それでも。
(それでも、だ)
彼は、愛蘭が東国で積み上げてきた時間を知っている。
後宮で、
絵師として蔑まれ、
異国の血を理由に囁かれ、
それでも、筆を折らなかった姿を。
(あれは、誰かの娘としてではない)
一人の人間として、
一人の画家として、
彼女自身が選び、立ち続けた場所だ。
アンソニーは言った。
「君の考えが変わるまで、ここにいる」と。
(……随分、傲慢だ)
だが。
(嫌いではないな)
正直な感想だった。
自分は、どうだ?
劉原水は、自問する。
愛蘭に対して、
自分は、何を与えられる?
地位か。
保護か。
それとも――安全な場所か。
(それは、彼女が一番嫌うものだ)
守られる檻。
決められた未来。
劉原水は、愛蘭がそれを拒む女だと、
誰よりも理解していた。
(だからこそ……)
彼は、静かに覚悟を決める。
(奪い合う気はない)
愛蘭を、
誰かの所有物のように扱うつもりはない。
だが。
(選ぶ権利は、彼女にある)
その上で。
(……俺は、退かない)
それだけは、譲れなかった。
アンソニーは、過去だ。
確かに、強く、美しい過去。
だが、自分は――
彼女の「今」を、知っている。
迷い、怒り、描き、立ち止まり、
それでも前へ進む姿を。
(それを、手放せと言われて、はいそうですか、とは言えない)
劉原水は、深く息を吸い、吐いた。
外交官としての冷静さを、
無理やり、仮面のように被り直す。
この先、
フランとの交渉は、間違いなく荒れる。
愛蘭の存在そのものが、
国家間のカードになる。
(……だが)
彼は、そっと愛蘭を見る。
(その時は)
国家ではなく、
血筋でもなく。
(俺は、愛蘭の味方でいる)
彼女が、どの国を選ぼうとも。
あるいは、どの国も選ばぬ道を選んだとしても。
それだけは、
誰にも譲らないと。
劉原水は、静かに、心の中で誓っていた。




