第十七話 愛蘭(あいらん)アンソニーの婚約者について語る
愛蘭の過去とアンソニーの目的
東国の緑伯領のフラン大使館の応接の間に、再び沈黙が落ちた。
劉原水は、あえて口を挟まなかった。
ここから先は――外交ではない。自分が何かを言える立場でもない。
個人的な感情の領域だと、理解したからだ。
◇ ◇ ◇
愛蘭は、ゆっくりと息を整え、アンソニーを見た。
「……ひとつ、聞かせてください」
声は、思ったよりも冷静だった。
「なぜですか。どうして、あなたが東国に来たのですか?」
アンソニーは、一瞬だけ目を伏せた。
そして、はっきりと告げた。
「君を、フランに連れて帰るためだ」
愛蘭の胸が、きゅっと締めつけられる。
「……それは、もう終わった話です」
愛蘭は、視線を逸らしながら続けた。
「わたしたちの間は、あの時点で終わったはずです。
あなたには、ソフィア様という立派な婚約者がいるじゃないですか」
その名を口にした瞬間、胸の奥に残っていた澱が、静かに疼いた。
アンソニーは、苦い顔で息を吐く。
「……確かに、君に黙っていたことは謝る」
はっきりと、彼は頭を下げた。
「あれは政略結婚だった。
だが、わたしが愛しているのは――愛蘭、君だけだ」
その言葉に、愛蘭の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
悲しそうに。
そして、どこか懐かしむように。
「……わたしも」
ぽつりと、愛蘭は言った。
「わたしも、アンソニーのことが好きでした」
劉原水の指が、わずかに強く組まれる。
「でも」
愛蘭は、きっぱりと言葉を切った。
「あなたに公爵令嬢の婚約者がいると知っていたら、
わたしは、あなたの告白を受け入れることはなかった」
それは、非難ではなかった。
ただの、事実の確認。
アンソニーは、言葉に詰まる。
「だから……」
愛蘭は、静かに続けた。
「別れるために、わたしは東国に帰ったのです。
婚約者と結婚するために」
胸が痛んだ。
それでも、言わなければならなかった。
「あなたを忘れるために」
応接の間の空気が、重く沈む。
「なのに……なぜ?」
愛蘭は、アンソニーをまっすぐに見た。
「なぜ、あなたは東国に来たのです。
あのまま、婚約者と結ばれるべきでした」
アンソニーは、迷いなく答えた。
「……諦められなかったからだ」
即答だった。
「愛蘭。わたしは、君を諦めない」
その声音に、冗談めいた軽さはない。
「だから、追いかけてきた」
愛蘭は、唇を噛む。
「婚約者がいると知っていたら、わたしはあなたを選びませんでした」
アンソニーは、肩をすくめる。
「政略と恋愛は、別だよ」
その一言に、愛蘭の眉が寄った。
「……そういわれても、わたしは納得できません」
「貴族とは、そういうものだよ」
アンソニーは、少し困ったように笑った。
「愛蘭を側室か、愛人にできないかと父上に進言したら――
さすがに、こっぴどく怒られてね」
劉原水の眉が、ぴくりと動く。
愛蘭は、あきれたように息を吐いた。
「……本気で言っているんですか?」
「本気だ」
アンソニーは、真顔だった。
「それに、わたしも当時は知らなかったのだよ」
彼は、声を落とす。
「愛蘭が、リチャード国王陛下がまだ第三王子だった頃、
緑港伯のもとで、東国との外交や絵描きをしていた時に生まれた娘だったとは」
愛蘭は、黙って聞いていた。
「当時、まさかリチャード国王陛下が王位に就くとは、誰も想像していなかったからね」
第一王子の病死。
第二王子の事故死。
「だから、東国に妻と娘を残したまま、
一時帰国しただけのつもりが――王太子になってしまった」
アンソニーは、苦々しく言う。
「国王陛下は、遠い地に妻と娘を残したことを、深く嘆いていたよ」
愛蘭の胸に、微かなざわめきが走る。
「君がフランに来た時、すぐに名乗れなかったのも、
後ろめたさからだろう」
そして、彼は付け加えた。
「それでも、君がエリートのアカデミーで学べたのは、
間違いなく国王陛下の力によるものだ」
愛蘭は、ふっと溜息まじりに笑った。
「その節は助かりました……しかし、あなたがここに来た理由とは、関係ありません。
なぜ? ここに来たのですか?」
呆れを隠さない声だった。
「わたしは、フランには戻りません」
はっきりと、宣言する。
「ここに、わたしの居場所があるのです。わたしを必要としてくれている人たちがいるのです」
アンソニーは、少し目を細めた。
「ならば」
穏やかだが、引く気はない声音で。
「愛蘭の考えが変わるまで、わたしはこの国に滞在するよ」
「……え?」
「大使館で外交員として、正式に勤務しようと思っている」
愛蘭は、言葉を失った。
劉原水が、ゆっくりと口を開く。
「……面白い話だが、彼女がフランに行くことはない……」
その声は、静かだが、鋭い。
こうして。
アンソニー・ド・ラ・ロシュと、劉原水。
二人の男による、愛蘭を巡る恋のバトルは――
静かに、しかし確実に、幕を開けたのだった。




