閑話2 沈琳道視点 愛蘭とのやり直しの未来を信じて
沈琳道視点 ――まだ、終わっていないはずだ
沈伯爵家を追い出されてから、どれほどの時が経ったのか。
正確な日数は、もう分からなくなっていた。
宿と呼ぶにはあまりに粗末な安宿。
薄い壁の向こうからは、咳や怒鳴り声、酒瓶の割れる音が聞こえる。
床に転がったまま、天井を見つめる。
(……腹が、減った)
それが、最初に浮かんだ思考だった。
沈琳道。
あの大貴族、沈伯爵家の三男。
誰もが一歩下がって頭を下げた男。
今は――
銅貨の残りを数え、明日の食事を心配するだけの存在。
「……くそ」
吐き捨てるように呟く。
仕事を探した。
だが、どこへ行っても首を振られる。
「沈、だと?」
「……あの沈家の?」
「面倒ごとは御免だ」
名前は、まだ生きていた。
だがそれは、助けではなく、拒絶として。
ついに金が尽き、
宿代すら払えなくなった頃、
私はふらふらと街道を歩いていた。
行く当ては、ひとつしかなかった。
緑港伯家。
(……あそこなら)
かつて、婚約者として迎えられるはずだった場所。
私が“伯爵家の婿”になるはずだった場所。
あそこなら、何かが残っているかもしれない。
◆ ◆ ◆
だが、緑港伯屋敷は――
すでに“屋敷”ではなかった。
高い門は固く閉ざされ、
封印の札と、立ち入り禁止の標識。
警備兵が、無言で睨みを利かせている。
「……嘘だろ」
門前に立ち尽くし、呆然と呟く。
庭も、建物も、そこにある。
だが、もう“誰のものでもない”。
「緑港伯家は、終わったんだ……」
頭では、分かっていた。
それでも、現実を突きつけられると、膝が震えた。
私は、何を頼りに生きればいい?
沈家は、私を捨てた。
緑港家も、消えた。
――だが。
そのとき、ふと、胸の奥に灯るものがあった。
(……まだ、ひとつだけある)
愛蘭。
そうだ。
愛蘭がいる。
私は、顔を上げた。
(彼女と、寄りを戻せばいい)
なぜ、今まで気づかなかった?
私は、騙されていたのだ。
麗香に。
あの女が、甘い言葉で、私を誘い、
婚約破棄へと追い込んだ。
(そうだ。俺は、被害者だ)
そう告げればいい。
正直に話せば、愛蘭は――
(……許してくれるはずだ)
だって、あの女は、優しかった。
何も言わず、
ただ頭を下げて、去っていった。
あれは、怒っていなかったからだ。
悲しんでいただけだ。
(俺が必要だったんだ)
今なら、分かる。
彼女は、絵は描けても、
政治も、港の運営も、貴族社会の立ち回りも――
(全部、俺が支えればいい)
そうだ。
二人で、緑港家を継げばいい。
愛蘭は、伯爵位を嫌っていた。
ならば、表に立つのは、俺だ。
彼女は、裏で絵を描けばいい。
それが、理想の形だ。
(皇族の血を引く妻……)
胸が、高鳴る。
そうなれば、私は――
沈琳道は、再び日の目を見る。
誰もが、私を見上げる。
父も、沈家も、
私を切ったことを後悔するだろう。
「……大丈夫だ」
私は、自分に言い聞かせる。
「愛蘭も、俺のことが好きなはずだ」
婚約していたのだから。
愛情が、なかったはずがない。
それに――
今の彼女には、私が必要だ。
伯爵家の跡取り。
政治の表舞台。
すべてを背負うには、
男手がいる。
(俺しかいない)
それは、確信に近かった。
◆ ◆ ◆
夕暮れの港を歩きながら、
私は、久しぶりに“未来”を思い描いていた。
愛蘭に会う。
事情を話す。
「俺は、騙されていたんだ」
「君を裏切るつもりは、なかった」
「やり直そう」
そう言えばいい。
彼女は、困ったように微笑んで、
きっと、こう言う。
『……仕方ありませんね』
ああ、想像するだけで、胸が満たされる。
これで、すべてが元に戻る。
いや――
前よりも、もっと良い形で。
私は、足を止め、空を見上げた。
灰色の雲の向こうに、
まだ光があると、信じていた。
(……会いに行こう)
そうだ。
考えている暇はない。
愛蘭に会えば、分かる。
すべては、そこからだ。
私は、決心した。
――まだ、終わっていない。
沈琳道の物語は、ここで終わるはずがない。
そう信じて、
私は歩き出した。
破滅へ向かっているとも知らずに。




