閑話1 沈琳道視点 琳道の誤算
沈琳道視点
――終わった家、終わった男
緑港伯家は、もう終わりだ。
その事実を、私は何度も頭の中で繰り返していた。
そうしなければ、足が震えて、前に進めなかったからだ。
街道を走る馬車の中。
窓の外には、冬枯れの木々が流れていく。
(……どうして、こうなった)
判決が下ったと聞いた瞬間、私は迷わず逃げた。
麗香を置き去りにして。
それを卑怯だと言う者もいるだろう。
だが、生き延びるためには仕方なかった。
私は沈琳道だ。
沈伯爵家の嫡男。
こんなところで、終わる男ではない。
――そのはずだった。
ふと、父の声が脳裏に蘇る。
『いいか、琳道。
愛蘭との婚姻は、お前の出世に直結する』
あの夜。
書斎で、父は珍しく厳しい顔をしていた。
『彼女を大切にしろ。
決して裏切るな』
叱責に近い口調だった。
『あの娘は、ただの伯爵令嬢ではない。
我が沈家にとっても、重要な縁だ』
私は、内心で鼻で笑っていた。
(フラン人とのハーフの娘が、そこまでの価値?)
当時の私は、そう思っていた。
愛蘭は確かに見た目は美しい容姿だ。
しかし、母を亡くし、父親もいない女だ。
それに比べて、麗香は違った。
父親が伯爵家の跡取りなのだから、彼女と結婚した方が未来は明るいはずだ。
そして、彼女こそ緑港伯家の令嬢として相応しい。
(選ぶのは、当然だろう)
私は、そう信じて疑わなかった。
――愛蘭に、皇族の血が流れているなど、
夢にも思わなかった。
「……ふざけるな」
思わず、声が漏れる。
知っていれば。
最初から知っていれば。
婚約破棄など、するはずがなかった。
麗香を選ぶなど、あり得なかった。
(なぜ、教えてくれなかった)
怒りが、込み上げる。
父か?
それとも、愛蘭自身か?
いや――
きっと、皆が私を騙していたのだ。
(私は、被害者だ)
そう思わなければ、正気を保てなかった。
だから私は、沈家へ向かった。
実家へ。
父に、この事態を何とかしてもらうために。
沈伯爵家なら、まだ力がある。
緑港伯家が潰れた今、沈家まで巻き込まれるはずがない。
(せめて、俺だけでも)
そう思っていた。
それが当然だと、信じていた。
◆ ◆ ◆
沈伯爵家の屋敷は、以前と変わらぬ威容を保っていた。
だが――
門をくぐった瞬間、空気が違うと感じた。
使用人たちの視線。
冷たく、刺すような目。
「……父上は?」
そう尋ねても、返事はそっけない。
「書斎におられます」
案内もされず、私は一人で向かった。
書斎の扉を開けると、父は机に向かっていた。
だが、顔を上げない。
「父上!」
声を荒げると、ようやく視線がこちらに向けられた。
――その目に、情はなかった。
「……戻ったか」
それだけだった。
「この状況、どういうことですか!」
私は、堪えきれずに叫んだ。
「緑港伯家が取りつぶしになった!
あれでは、私まで危険です!」
父は、ゆっくりと息を吐いた。
「だから、言っただろう」
低い声。
「愛蘭を裏切るな、と」
胸が、ひくりと跳ねる。
「ですが!
あの女が、皇族の血を引いているなど――」
「知らなかった?」
父の目が、細められる。
「知らなかったのは、お前だけだ」
「……なに?」
「公にはされていなかったが、
知る者は知っていた」
頭が、真っ白になる。
「なぜ、教えてくれなかったんです!」
思わず、縋るように叫ぶ。
「教えていれば、私は――」
「それ以上言うな」
父の声が、鋭く遮った。
「お前は、条件で女を選ぶのか」
私は、言葉を失った。
「私はな」
父は、静かに立ち上がる。
「お前が“人として”あの娘を大切にすると信じていた」
その言葉は、刃だった。
「だが、お前は違った」
視線が、冷たい。
「保身と虚栄心で、全てを台無しにした」
「父上……」
「沈家は、もうお前を守らん」
はっきりと、告げられた。
「え……?」
「愛蘭と別れ、
我が家に恥をかかせ、
その上、皇族の不興を買った」
父は、首を横に振る。
「助けられると思ったか」
私は、膝が震えた。
「……父上、私は、あなたの息子です!」
「だったら、尚更だ」
冷酷な声。
「沈家の名を、これ以上汚すな」
それが、最後だった。
私は、屋敷を追い出された。
文字通り。
金も、地位も、後ろ盾もない。
◆ ◆ ◆
屋敷の外で、私は立ち尽くした。
冷たい風が、頬を打つ。
(……なぜだ)
何度も思う。
私は、間違ったことをしたか?
より良い未来を選んだだけではないか。
だが――
父の言葉が、頭から離れない。
『条件で女を選ぶのか』
あの静かな叱責。
胸の奥が、じわじわと痛む。
そのとき、ふと浮かんだのは、
頭を下げて去っていった、あの後ろ姿だった。
愛蘭。
あの女は、何も言わなかった。
責めも、恨みも、ぶつけなかった。
それが、今になって、堪らなく重い。
(……俺は)
気づいたときには、遅すぎた。
緑港伯家は終わった。
沈家も、私を切った。
残ったのは、
選択を誤った男一人。
――それが、沈琳道という男の現実だった。
そして私は、初めて理解した。
あの時、父が守れと言ったものは、
地位でも、血筋でもなく――
人の縁だったのだと。
だが、その色はもう、
二度と取り戻せないほど、
深く、濁ってしまっていた。




