閑話3 緑麗香(れいか)視点 劉原水と言う死神
――丘の上に立つ裁き――
緑港伯屋敷は、港を見下ろす丘の上にあった。
白い石造りの外壁は、潮風に削られながらも、かろうじて威厳を保っている。
幼い頃から見慣れた景色だ。
ここは、私たちの城であり、世界の中心であるはずだった。
その正門前に、黒塗りの官用馬車が止まったと知らされたとき、胸の奥が、ひどく嫌な音を立てた。
(来た……)
なぜ? 帝国の役人がここに派遣されたのか?
わたしたちが一体? 何をしたというのだ。
父が何かをしたのだろうか? 状況がよくわからない不安定な気持でいた。
屋敷の前には、すでに伯爵家の役人たちと家宰が整列していた。
皆、背筋を伸ばし、表情を作っている。
けれど、その動きは揃いすぎていて、かえって不自然だった。
「外務省より、劉原水殿をお迎え申し上げます」
年配の家宰が、深く頭を下げる。
その瞬間、馬車の扉が開いた。
降りてきた男は――若かった。
(……え?)
二十五前後。
官吏としては、あまりに若い。
だが、その立ち姿に、軽さはない。
無駄のない動作。
視線は静かで、しかし、見逃さない。
それだけで、場の空気が変わった。
(この人が……劉原水)
名は知っている。
帝の意を代弁する男。
外務を統べ、外交と裁断を一手に担う冷徹な官。
――だが、噂で聞いていた年齢より、明らかに若い。
そして、その背後。
もう一人、女が馬車を降りた。
(……愛蘭?)
一瞬、目を疑った。
外套に身を包み、静かに立つその姿。
通行札に刻まれた印章を見た役人たちの視線が、わずかに揺れたのを、私は見逃さなかった。
後宮絵師。
――それ以上の意味を持つ同行者。
胸の奥が、ざわつく。
「さっそく、現伯にお目通りを願おう」
劉原水は、淡々と言った。
その声には、若さを感じさせる揺らぎがない。
まるで、年齢という概念を最初から持たない人間のようだ。
◆ ◆ ◆
応接の間へ向かう廊下。
壁に掛けられた肖像画が、視界に入る。
先代緑港伯夫妻。
その一人娘。
そして――その先が、ない。
(……隠していることが見られたらどうするべきか)
私は、思わず足を止めそうになる。
本来なら、描かれているはずだ。
その娘の、子の姿がないのだから。
だが、そこには空白しかなかった。
愛蘭も、気づいたのだろう。本来なら自分の肖像画が飾られている場所。
一瞬、視線を留めたが、しかし、何も言わなかった。
それが、ひどく腹立たしかった。
◆ ◆ ◆
「緑港伯、仲頴でございます」
父が、中央の椅子から立ち上がる。
作り笑い。
いつも通りの、港町の領主の顔。
だが、私は見てしまった。
父の指先が、わずかに震えているのを。
「早速だが」
劉原水は、挨拶もそこそこに切り出した。
「継承の経緯について、確認させてもらう」
空気が、冷えた。
「私は、前緑港伯の実子です。
正当な跡取りとして、伯爵位を継ぎました」
父は、そう答える。
だが。
「――前伯の“正妻”の子ではないな」
その一言で、すべてが崩れ始めた。
私は、息を呑む。
「前伯の正妻は亡くなり、その一人娘も早世している。
だが――その娘には、子がいたはずだ」
父の口が、わずかに開いたまま止まる。
「孫娘だ。生存しているはずだ」
劉原水は、淡々と告げた。
「本来の伯爵継承権は、前伯の娘。
その死後は、その孫に移る」
――そんな話、聞いていない。
いや、知らなかっただけなのか……
「……しかし、その孫娘は女性です」
父の声が、弱々しく響く。
「だから、どうした」
劉原水の声が、鋭くなる。
「女性であろうと、皇家の血を引く直系だ。
継承権は、消えない」
胸が、締めつけられる。
(皇家……血?)
「孫娘――麗香は、すでに婚姻しております」
父は、私の名を出した。
だが。
「知っている」
劉原水は、即座に返す。
「だが、それで継承権が“お前に移る”理由にはならん」
沈黙。
「加えて言おう」
彼は、さらに踏み込んだ。
「麗香殿は、前伯の“側室の血筋”だ。
皇家の血は、流れていない」
――何?
頭が、真っ白になる。
「つまり」
劉原水の視線が、部屋を貫いた。
「緑港伯家において、皇族の血を引く正統な継承者は、今、誰か」
その問いの先にある“空白”が、はっきりと分かってしまった。
私は、愛蘭を見た。
彼女は、何も言わない。
ただ、静かに立っている。
それが、何よりも残酷だった。
「……これは、乗っ取りか?」
劉原水は、はっきりと問うた。
「それとも、法を理解せぬまま座に居座っているだけか」
父は、答えられない。
「忘れたとは言わせん」
その声は低く、だが重い。
「緑港に各国の大使館が置かれている理由を。
この港が、帝国の顔である理由を」
私は、初めて理解した。
この男は、ただの官吏ではない。
年齢にそぐわぬ重み。
迷いのなさ。
そして、帝の意を“当然のもの”として扱う態度。
(……こいつは、何者なのだ)
「本日より」
劉原水は、結論を告げた。
「緑港伯位の継承について、正式な調査に入る」
屋敷が、音を立てて崩れ始める気がした。
私は、その場に立ち尽くす。
港の空は、どこまでも青い。
だが、この屋敷の中では――
確かに、新たな火種が、燃え始めていた。
それが、私の世界を焼き尽くすものだと、
この時の私は、まだ、理解しきれていなかった。




