第十五話 劉原水(りゅうげんすい)、嫉妬
劉原水視点
――色と血と、愚かな男
緑港領に設けられた帝の別荘兼、公務施設。
その二階の客間に、私は愛蘭殿を通した。
窓の外には、穏やかな海。
港へ戻る商船の帆が、ゆっくりと下ろされていく。
(……この場所を選んで正解だったな)
緑港伯屋敷の空気は、重すぎる。
血と虚偽と、隠蔽の匂いが染みついている。
対してここは、まだ「帝の空気」が保たれている。
余計な思惑が、入り込めない。
私は机の上に整えられた書類を見下ろした。
数日に及ぶ調査の成果――系譜、婚姻記録、肖像画、港湾税帳簿、そして「描かれなかった一枚」。
結論は、最初から薄々わかっていた。
「調査は終わった」
そう告げたときの、彼女の顔。
覚悟はしていたはずなのに、それでも心の奥で何かが軋む音がした。
「緑港伯家の正統な後継者は、あなたしかいない」
淡々と告げたつもりだった。
だが、彼女が「……そうですか」とだけ答えた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
(やはり、権力に興味がない)
それが、私にはたまらなく魅力的だった。
伯爵位に執着する者は多い。
港を、財を、支配を欲する者も。
だが、彼女は違う。
色と向き合い、描くことだけを選び続けてきた。
だからこそ――
だからこそ、守りたくなる。
自分の立場を明かしたのは、計算半分、誠意半分だった。
「私は第三皇子だ」
その瞬間の、驚いた瞳。
飾り気も、計算もない反応。
(……ああ、やはり)
この女性は、嘘が下手だ。
色を信じ、世界をまっすぐ見ている。
文化を通して国に仕える道を示したとき、彼女の表情がふっと和らいだのを、私は見逃さなかった。
(その顔だ)
それでいい。
剣でも、玉座でもない。
この国に、必要なのは「芸術」だ。
彼女が去った後、私は深く息を吐いた。
「……張玉寧」
控えていた側近が、一歩前に出る。
「はい。殿下」
張玉寧は、長く私に仕えている。
私の思考も、感情も、だいたいお見通しだ。
「どう思う?」
彼は、少し間を置いてから言った。
「興味深い女性です。
ですが――殿下」
ちらりと、私の顔を見る。
「“興味深い”だけでは、ありませんね」
……やはりか。
「顔に出ているか」
「かなり」
即答だった。
私は苦笑する。
「困ったものだな」
「ええ。第三皇子が、一人の女性にそこまで心を向けるなど。
政治的には、非常に厄介です」
張玉寧は淡々としているが、呆れも混じっている。
「だが――」
私は、窓の外の海を見る。
「彼女は、利用されるべきではない」
「承知しています。ですが……」
張玉寧は、書類の一つを指で叩いた。
「沈琳道。あの男は、本当に愚かですな」
その名を聞いた瞬間、胸の奥に黒いものが湧いた。
「ああ。愚かだ」
才能も、縁も、すべて手にしていながら。
自ら、それを投げ捨てた。
「愛蘭殿を婚約破棄した理由も、浅はか。
家の都合と、己の虚栄心だけ」
「……見る目がない」
思わず、声が低くなる。
「彼女の価値が、わからなかった」
色を見抜く目も、真実を感じ取る感性も。
それが、どれほど希少か。
「沈家にも、お灸が必要だな」
その言葉に、張玉寧は眉をひそめた。
「殿下、それは――」
「当然のことだ」
私は静かに言う。
「緑港を巡る毒の流通。
沈家が直接関わっていなくとも、“知らなかった”では済まされない」
そして――
「私情も、少しある」
正直に言うと、張玉寧は深いため息をついた。
「……嫉妬、ですか」
「否定はしない」
あの男が、彼女を傷つけた。
それだけで、十分だ。
「殿下は、本当に厄介なお方だ」
呆れ顔で言いながらも、張玉寧は否定しなかった。
「だが、止めはいたしません。
彼女は皇族の血が流れている――それに我が国にとって、必要な存在だ」
「そうだ」
私は、ゆっくりと頷く。
「緑港は、ただの港ではない。
そして、愛蘭も――ただの絵師では終わらせない」
芸術は、嘘をつかない。
だが、人はそれを使って、嘘をつく。
ならば――
真実を照らす美を、彼女と共に守ろう。
(恋心か……危険だな、これは)
そう思いながらも、止める気はなかった。
海は今日も穏やかだ。
だが、その下では、確実に潮目が変わり始めている。
そして私は知っている。
この変化の中心に、
一人の絵師がいるということを。
それを、愚かにも手放した男がいたということを――
決して、忘れはしないし、許しもしない。




