第二話 愛蘭(あいらん)、王都での試練
王都のさまよう日々
王都は、緑港とはまったく違う空気をまとっていた。
高くそびえる城壁。
絶え間なく行き交う人と馬車。
富も貧も、善も悪も、すべてが混ざり合って渦を巻く場所。
愛蘭は、馬車を降りたその場で、しばらく立ち尽くしていた。
――ここで、生きていかなければならない。
背中に背負った荷物は小さく、頼れる者は、祖父の元執事の顔中蓮だけだった。
祖父のメモを頼りに、帝都で隠居生活をしている顔氏を見つけることが重要だ。
◆ ◆ ◆
愛蘭は、王都に来て、まず初めに顔中蓮の住所を訪問した。
そして、彼が他界していることを知った時に、愛蘭の苦悩はさらに、深まった。
その事実を知り、数日は、ショックでほとんど何もできなかった。
安い宿に泊まり、どんどん路銀が少なくなっていった。
このままでは、安宿にも泊まれなくなる。
そうなれば、橋の下や路地裏で夜を明かす未来も考えられてきた。
腹が鳴る。
愛蘭は仕事が見つかるまで、路銀を節約するために食費を減らした。
「……情けないな」
誰に聞かせるでもなく、愛蘭は小さくつぶやいた。
緑港伯爵家では、食べ物に困ることなどなかった。
だが今は、パン一切れを買うにも、迷わなければならない。
――でも、泣いている暇はない。
そう自分に言い聞かせ、愛蘭は市場へ向かった。
◆ ◆ ◆
市場は、王都の縮図のような場所だった。
香辛料の匂い。
焼き立てのパン。
露店商の呼び声と、子どもたちの笑い声。
その片隅で、愛蘭は古びた布を地面に敷き、腰を下ろした。
膝の上に、スケッチブック。
手には、使い慣れた鉛筆。
――似顔絵なら、描ける。
フラン王国の芸術アカデミーで学んだ写実の技法。
遠近法、陰影、光の捉え方。
東洋画が主流のこの国では、まだ珍しい。
通り過ぎる人々を、静かに観察する。
歩き方。
目線。
表情の癖。
最初に声をかけてきたのは、商人風の男だった。
「嬢ちゃん、それ……俺の顔か?」
「はい。もしよろしければ、仕上げますけれど……」
「へえ……面白いな。いくらだ?」
値段を告げると、男は少し驚いた顔をしたが、銀貨を置いていった。
――売れた。
胸の奥で、小さな灯がともる。
それから、少しずつだった。
家族の集合絵。
恋人同士の笑顔。
旅人の疲れた表情。
描けば描くほど、手は温まり、心も落ち着いていった。
◆ ◆ ◆
だが、現実は甘くない。
日によっては、まったく売れないこともあった。
場所代を要求され、追い払われることもある。
絵を仕上げても代金を貰えなかったこともあった。
「女が、こんな絵を描くなんてな」
そんな言葉を投げられたことも、一度や二度ではない。
愛蘭は、ただ黙って頭を下げた。
――反論しても、意味はない。
生きるために必要なのは、誇りよりも、今日の糧だった。
夜になると、安宿に戻り、空腹を忘れるために早く眠る。
腹が空き、なかなか眠れない時もあった。
宿代を節約するために、路地で寝ることも考えたが、夜の街に女が一人でいられるほど、王都の治安はよくなかった。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、愛蘭は薄暗い宿で自分に言い聞かせる。
「わたしには、アールがある」
それは、祖父が与えてくれた未来。
フランで学び、身につけた唯一の武器。
◆ ◆ ◆
そんな生活が、数週間続いたある日。
市場で、いつものように似顔絵を描いていると――
背後から、息を呑むような声が聞こえた。
「お嬢さん、これは……!」
驚いた声に、愛蘭は振り返った。
そこに立っていたのは、立派な衣をまとった中年の男。
役人風の装いで、目には知性の光が宿っている。
「……あ、すみません。邪魔してしまいましたか?」
慌てて立ち上がると、男は大きく手を振った。
「いや、違う! そうじゃない!」
男は、愛蘭の描いていた絵を、まじまじと見つめている。
「こんな描き方は、初めて見た……
まるで、そこに人が“いる”みたいだ」
愛蘭の胸が、どくりと鳴った。
「……どこで、学んだ?」
少し迷ってから、愛蘭は答えた。
「フラン王国の芸術アカデミーで……四年間ほど」
「フラン王国……!」
男は目を見開き、次いで、納得したように頷いた。
「なるほど……その顔立ち。
君、フラン人なのかい?」
「父がフラン人で……母は、この国の者です」
男は、にやりと笑った。
「やはりな。
私は張玉寧。宮中に仕える者だ」
――宮中。
その言葉に、愛蘭は息を呑んだ。
「もし良ければ、一度、宮中の図画省に来てくれないか?」
「……わたしが、ですか?」
「君のような技術を持つ者を、探していた。
特に後宮で仕える女性の絵師をな」
突然開かれた、見えない扉。
信じていいのか、分からない。
だが、男の目は真剣だった。
愛蘭は、胸に抱えたスケッチブックを、ぎゅっと握る。
――ここで、立ち止まれば。
――未来がない安宿暮らしに戻るだけ。
「……やってみても、いいかもしれない」
小さな声だった。
だが、それは、確かな決意だった。
こうして愛蘭は、
王都の片隅で生き延びていた“絵描きの娘”から、
後宮へとつながる道を、初めて踏み出すのだった。
それが、どれほど危険で、どれほど眩しい世界かも知らずに――。




