第十四話 愛蘭(あいらん)正体が知られる。
愛蘭の身分
緑港領に設けられた帝の別荘兼、公務施設は、港町の喧騒から少し離れた海沿いにあった。
白い外壁と、低く抑えられた屋根。
華美ではないが、ここが「高貴の場所」であることは、空気そのものが語っている。
愛蘭は、二階の客間に通されていた。
大きな窓からは、穏やかな海が見える。帆を下ろした商船が、ゆっくりと港に戻ってくるのが見えた。
(……静かだ)
緑港伯屋敷で感じた、あの重たい空気とは違う。
ここには、隠し事を抱えた家の匂いがない。
数日間。
劉原水と外務省の役人たちは、緑港伯家の書類、系譜、婚姻記録、そして「描かれなかった肖像」の調査を続けていた。
愛蘭は、その間、何度も呼ばれ、何度も同じことを聞かれた。
――生年月日。
――母の名。
――父の名。これはフラン人とだけ答えた。
――母方の血筋。
答えるたびに、役人たちの顔色が変わっていくのがわかった。
そして、今。
劉原水は、愛蘭の正面に座っていた。
机の上には、整えられた書類の束。
「調査は終わった」
静かな声だった。
「結論から言おう。愛蘭殿――緑港伯家の正統な後継者は、あなたしかいない」
予想していなかったわけではない。
けれど、胸の奥が、きしりと音を立てた。
「……そうですか」
それだけしか、言えなかった。
劉原水は、愛蘭の反応をじっと見てから、続ける。
「なぜ、黙っていたのか。そう思っているだろう」
愛蘭は、視線を窓へ逃がした。
「……正直に言えば、はい」
なぜ、もっと早く教えてくれなかったのか。
なぜ、愛蘭が後宮で絵を描いている間、何も言わなかったのか。
「あなたが望んでいなかったからだ」
即答だった。
「あなたは、伯爵位にも、港にも、権力にも、興味がなかった」
その言葉に、愛蘭は小さく息を吐いた。
「……ええ。ありませんでした」
今も、正直、あるとは言えない。
「私は、アールを極めたかっただけです。描くこと。色と向き合うこと。それだけで、生きていたかった」
それが逃げだと言われても、否定できない。
劉原水は、少しだけ、表情を和らげた。
「その気持ちは、わかる」
そして――
「なぜなら、私は第三皇子だからだ」
一瞬、言葉の意味が、頭に落ちてこなかった。
「……え?」
「帝の第三皇子。皇籍からは外れていないが、表に立つことはない立場だ」
静かに、淡々と。
だが、その一言は、世界の見え方を変えるには十分だった。
「だから、わかる。何かを極めたい、という気持ちも。名や血から逃れたい、という思いも」
愛蘭は、思わず彼を見つめていた。
「けれど――」
劉原水は、少しだけ声を低くする。
「皇族に生まれた以上、この国のために何かを成したい、とも思っている」
その言葉は、押し付けではなかった。
覚悟として、静かに置かれたものだった。
「もし、それが軍事でも、政治でもなく」
原水は、愛蘭を見る。
「文化を広げる、という形なら。アールを通して、この国を豊かにするなら。どうだろうか」
胸の奥が、すうっと軽くなるのを感じた。
支配するためではない。
奪うためでもない。
守り、育て、広げる。
「……それなら」
愛蘭は、ゆっくりと口を開いた。
「私にも、できることがあるかもしれません」
緑港は、東と西を結ぶ港。
絵具も、顔料も、技法も、人も――ここを通る。
「この国のアールの発展のために。私にできる形で、協力したいです」
劉原水は、小さく頷いた。
「ありがとう」
だが、話は、それで終わりではなかった。
「さて問題は、フランの大使館だ」
その一言で、空気が変わる。
「ここには、まだ謎が残っている」
――パリスグリーン。
鮮やかな緑。
美しいが、猛毒。
大量に余り、本来あるはずのない量が、東国へと流れ込んだ。
「誰が、何のために、持ち込んだのか」
事故ではない。
偶然でもない。
「緑港は、その中継点だ」
愛蘭は、拳を握った。
アールは、嘘をつかない。
だが、人は、色を利用する。
「……その犯人を、突き止めましょう」
劉原水の目が、わずかに鋭くなる。
「共にな」
海は、今日も穏やかだ。
だが、その下では、確実に流れが変わり始めている。
緑港は、ただの港ではない。
そして、愛蘭は――ただの絵師では、いられなくなった。
新たな火種は、今度こそ。
色と真実を照らし出すために、燃え始めていた。




