第十二話 劉原水(げんすい)の活躍
劉原水視点 新たなる火種
出立は、思いのほか早く決まった。
帝への報告は最小限。
御前画会の件は「外交的懸念が生じているため、現地確認が必要」という、曖昧だが十分に重い理由が添えられた。
そして――同行者として名を挙げられたのは、後宮絵師・愛蘭。
正式な辞令である。今回はフランの知識を持つ、彼女の力が必要だ。
外務省の印章が押された通行札は、彼女が“ただの絵師ではない”ことを、物語っていた。
◆ ◆ ◆
緑港伯領へ向かう官用馬車は、夜明けとともに城門を抜けた。
黒塗りの車体。
内装は質素だが、揺れを抑えるために分厚い敷物が敷かれている。
劉原水は向かいの席に座り、膝の上で書簡をまとめていた。
その正面、窓際に愛蘭がいる。
外套に身を包み、膝の上で手を組んだまま、黙って外を眺めていた。
王都の石畳が途切れ、土の道に変わる。
人家が減り、畑と林が広がっていく。
(……戻る、か)
劉原水は、書簡から目を離し、彼女を盗み見る。
愛蘭の横顔は静かだった。
だが、どこか――覚悟と諦観が入り混じったような、後宮に入る前の彼女とは違う表情をしている。
「……不安かね」
問いは、柔らかく投げたつもりだった。
愛蘭は、少しだけ驚いたように目を伏せ、それから小さく首を振った。
「不安、というより……」
言葉を探すように、一拍置く。
「戻ることになるのかと、考えていました」
「緑港に?」
「はい」
劉原水は、短く息を吐いた。
「“戻る”という言い方をするあたり、緑港の出身なのか?」
愛蘭は小さく頷いた。
緑港伯領。
彼女が育ち、そして――追い出されるように去った土地。
フラン国に届いた結婚式の案内。
婚約者からの裏切り。
家からの断絶。
彼女の人生の節目が、すべて集約された場所だ。
「緑港伯は、最近、代を変えたようだ」
劉原水は、話題を変えるように口を開いた。
「緑港伯――つまり先代は、帝の叔母上が腰入れして嫁いだ家だ」
愛蘭の指が、わずかに強く組まれる。
「正妻はすでに他界している。
その娘も……若くして亡くなった」
「……そうですか」
愛蘭の声は、低かった。
劉原水は、あえて続ける。
「だが、その娘には子がいた。孫娘だ」
馬車が小さく揺れる。
「最近、その孫娘が婚姻し、跡を継いだと届け出が出ている」
愛蘭は、視線を窓から外し、ゆっくりと劉原水を見た。
その瞳に、警戒が走る。
「相手は――沈琳道」
一瞬、空気が止まった。
愛蘭は何も言わなかった。
だが、その沈黙が、すべてを語っていた。
「娘の名前は麗香」
劉原水は、淡々と告げる。
「沈琳道と婚姻したのは、彼女だ」
愛蘭は、目を伏せた。
感情を押し殺すように、ゆっくりと息を整える。
「……そう、ですか」
それだけだった。
恨みも、嘆きも、口にはしない。
だが、その静けさが、かえって深い傷を想像させた。
「ちなみに」
劉原水は、あえて踏み込む。
「麗香の父親は、前緑港伯の側室の子だ。
皇家の血は流れていない」
愛蘭のまつげが、ぴくりと揺れた。
「つまり――帝の血を引く者は、緑港伯家の中で、誰か。そして、わたしは不正があったと考えている」
答えは、明白だった。
愛蘭は、ゆっくりと首を振った。
「……その話は、もう」
劉原水は、そこで言葉を止めた。
彼女が、それ以上を望んでいないことは分かっている。
フランでの出来事。
そこでの、取り返しのつかない別れ。
それが、彼女を恋愛から遠ざけ、血筋や立場からも距離を取らせている。
(だからこそ、厄介だ)
帝の血を引く女が、
その事実を武器にする気がない。
そして、芸術と絵だけを頼りに生きている。
馬車は、丘を越えた。
遠くに、海の気配が混じった風が届く。
緑港は、もう近い。
「愛蘭」
劉原水は、低く言った。
「今回の件は、過去を清算するための旅ではない」
彼女は、黙って聞いている。
「だが――過去が、お前を放っておかない可能性は高い」
劉原水は、はっきりと告げた。
「君が戻るかどうかは、誰も決められない。君が判断するしかないのだ」
愛蘭は、しばらく黙っていたが、
やがて、ほんのわずかに笑った。
「……アールは、逃げませんから」
「ほう?」
「向き合うかどうかを、決めるのは描く側です」
劉原水は、その言葉に、思わず口角を上げた。
(やはり、この女だ)
馬車は、緑港伯領への街道に入る。
外交の火種。
血筋の秘密。
そして、“禁じられた緑”。
すべてが、この港町で交わろうとしていた。
(後宮で始まった一枚の絵が、
国の形を塗り替えるかもしれん)
劉原水は、窓の外に広がる海を見据えた。
この旅は、もう後戻りできない。
だが――
だからこそ、進む価値がある。
絵が、真実を語る限り。




