第十一話 愛蘭(あいらん)幼い皇女に絵を教える
翌朝の図画省は、ひどく静かだった。
徳妃の件が片付いてからというもの、宮中全体が、嵐の後のような沈黙に包まれている。
人は多いのに、声がない。
誰もが、余計な言葉を避けている。
愛蘭は机に向かい、筆を洗いながら、昨日のことを思い返していた。
(本当に……終わったのね)
禁じられた緑。
嘘を剥がす色。
絵が、誰かを傷つけるために使われたこと。
そして同時に、絵が、その罪を暴いたこと。
画家として、これほど重たい経験はなかった。
そんな時だった。
控えめな足音が、廊下から聞こえたのは。
「――愛蘭」
振り向くと、そこにいたのは小さな影。
玉華皇女。
まだ幼く、背丈はわたしの胸ほど。
白い衣に淡い水色の飾り紐を結び、黒曜石のような瞳で、まっすぐこちらを見ている。
「玉華様……? どうしてこちらに」
慌てて立ち上がると、皇女は子供らしくにこりと笑った。
「侍女頭に聞いてみたの。
愛蘭から絵を教わると良いって」
その声は、鈴のように澄んでいた。
「わたしも、愛蘭みたいな絵を描いてみたいの」
一瞬、胸が詰まる。
(この子は……まだ、何も知らない)
後宮の闇も。
禁じられた緑も。
色が持つ毒も。
ただ、きれいなものを、きれいだと思える年頃だ。
「愛蘭が教えてくれたら……ですが」
愛蘭は、微笑んで頷いた。
「では、絵を楽しみましょう」
「うん!」
玉華は、嬉しそうに手を叩いた。
◆ ◆ ◆
愛蘭は、机の上にいくつかの絵を並べた。
どれも、フランで学んだ頃に描いた習作だ。
蔓草のように流れる線。
花と女性が溶け合う構図。
枠そのものが装飾になる、曲線の世界。
「これは……?」
玉華が、目を丸くする。
「これが、フランで流行した“アール・ヌーヴォー”という様式です」
「くねくねしてる……でも、きれい」
「自然の形を、そのまま絵にしたのです。
花も、人も、同じ線でつながっていると考えました」
玉華は、次々と絵を見ていく。
そして――
一枚の前で、ぴたりと足を止めた。
「これ……とても、すてき」
それは、女性が花に囲まれ、長い髪を揺らす一枚。
柔らかな色彩。
装飾的な文字。
(アルフォンス=ミュシャ)
胸の奥が、少しだけ懐かしくなる。
「この絵を描いた人の名前は、ミュシャ。
フランでは、とても有名な画家でした」
「ミュシャ……」
玉華は、名前を大事そうに口にする。
「どうして、こんなふうに描いたの?」
「人を、美しいものとして描きたかったからです」
愛蘭は、静かに答えた。
「誰かを貶めるためではなく、
飾り立てるためでもなく……
ただ、“美しい”と伝えるために」
玉華は、しばらく絵を見つめていた。
「……この人、しあわせそう」
その言葉に、胸が熱くなる。
(それでいいのよ)
芸術は、最初は――
それで、いい。
◆ ◆ ◆
「では、少しだけ描いてみましょうか」
愛蘭は、紙と炭筆を渡した。
「むずかしいことはしません。
線を、風みたいに引いてみてください」
「かぜ?」
「はい。止めなくていいんです」
玉華は、真剣な顔で筆を握り、
恐る恐る、線を引いた。
ぎこちないが、途切れない線。
「上手ですよ」
「ほんと?」
「ええ。線が、生きています」
玉華は、ぱっと笑った。
その笑顔を見て、思う。
(この子が大きくなる頃――
この国は、どんな色をしているのだろう)
毒を隠す緑ではなく。
誰かを傷つけるための美ではなく。
ただ、人を救う色であってほしい。
◆ ◆ ◆
玉華が帰った後、図画省はまた静かになった。
机の上には、小さな線の走る紙が一枚。
愛蘭は、それをそっと片付ける。
(劉原水様の言う通り……
愛蘭は、もう後宮だけの絵師ではいられないのかもしれない)
フラン。
東国。
芸術。
それらが、ゆっくりと一本の線でつながっていく。
アール――
国境を越える、線。
その始まりを、
わたしは、幼い皇女の笑顔とともに、胸に刻んだ。




