第十話 愛蘭(あいらん)写真機について語る
写真機がもたらしたもの
徳妃の件が表沙汰になる少し前から、図画省は奇妙な熱気に包まれていた。
愛蘭は忙しかったのだ。
とにかく、絵の注文が途切れなかった。
後宮の妃たち。
皇族の親戚。
功を立てた官僚の記念肖像。
さらには地方の有力者からの「帝に献上するための下絵」まで。
理由は、はっきりしている。
――愛蘭の絵は、「似ている」。
写実的で、誤魔化しがない。
それでいて、どこか柔らかい。
「顔立ちをそのままに描かれている」
「まるで絵の中に本人がいるかのようだ」
そんな評判が、いつの間にか広がっていた。
(……褒められているのかしら)
筆を動かしながら、わたしは小さく息を吐く。
肖像画は、好きだ。
だが、同時に消耗もする。
相手の虚栄も、恐れも、欲も――
すべてを、線と色で受け止めなければならないから。
それでも、描いた。
依頼を断る立場では、まだない。
そんな日々が、数週間ほど続いた。
本当に、短い間だけ。
◆ ◆ ◆
転機は、港からやってきた。
フラン国の商人が、王都に持ち込んだ「珍品」。
――写真機。
黒い箱。
前面にはガラスの目。
内部には、銀板と薬品。
人の姿を、「描かずに写す」道具。
最初は、誰も信じなかった。
「冗談だろう」
「魂を吸うのではないか」
だが、実演が行われると、空気は一変した。
数分後、銀板の上に浮かび上がる人影。
細部まで正確で、誤魔化しがない。
――正確すぎる上に、簡単で、さらにお手頃価格。
そして、数日もしないうちに、噂が広がった。
「肖像画は確かに綺麗。一方、写真機は白黒だけど、安くて早くて本物みたい」
その言葉が、図画省に落ちるまで、時間はかからなかった。
◆ ◆ ◆
「愛蘭……暇になりましたね」
劉原水は、茶を注ぎながら、淡々と言った。
図画省の奥、簡素な応接室。
忙殺されていた頃が嘘のように、静かだ。
「はい。驚くほど」
愛蘭は、正直に答えた。
依頼は、半分以下に減った。
とくに、記録用の肖像画は、ほぼ消えた。
「写真機は、正確ですからね、早くて安いし」
「役人は、正確さを好む」
劉原水は、苦笑する。
「ですが……愛蘭」
「あなたは、慌てていない」
「……はい」
それは、自分でも不思議だった。
恐怖は、ない。
むしろ――少し、冷静だった。
「写真機は、簡単です」
わたしは、そう言った。
「光を当てれば、写る。
誰がやっても、同じ結果になる」
「画家泣かせですね」
「ええ。でも――」
わたしは、言葉を選ぶ。
「だからこそ、絵は“別の場所”へ行くのです」
◆ ◆ ◆
「フランでも、同じことが起きました」
愛蘭は、静かに話し始めた。
「写真機が普及したとき、肖像画家たちは仕事を失いました。
歴史画も、肖像画も、“正確さ”では勝てなくなった」
「それで?」
「画家たちは、考えたのです。
――写真にできないものは、何か、と」
劉原水は、黙って聞いている。
「光の一瞬」
「空気の揺れ」
「見る人の心が動く、その瞬間」
「それが、印象派です」
「聞いたことがあります」
「ええ。輪郭を曖昧にし、色を並べる。
正確ではないけれど、“感じたまま”を描く」
わたしは、机の上に、簡単なスケッチを描く。
輪郭のない木。
にじむ光。
「写真は、事実を写す。
印象派は、“体験”を描いたのです」
◆ ◆ ◆
「そして――もう一つ」
わたしは、少しだけ声を落とす。
「アール・ヌーヴォー」
「装飾の様式ですね」
「はい。これは、さらに写真機に近い場所から生まれました」
ポスター。
広告。
大量印刷。
「写真が事実を写すなら、
絵は“人の目を引く”役割を担う」
「なるほど」
「だから、線は誇張され、
色は象徴的になり、
美は、記号になる」
わたしは、蔓草のような線を引く。
「写真が増えたからこそ、
絵は、“写真にはなれないもの”になった」
劉原水は、ゆっくりと頷いた。
「つまり――」
「はい」
わたしは、微笑む。
「写真機は、敵ではありません。
道を、分けただけです」
◆ ◆ ◆
「この国でも、同じことが起きるでしょう」
わたしは、そう締めくくった。
「記録は、写真へ。
アールは、絵へ」
「後宮の絵師としては?」
「……変わります」
正直に言った。
「似せるだけの絵は、もう要られない。
意味を持つ絵。
象徴としての絵。
そして――心を動かす絵」
劉原水は、しばらく考え込み、やがて言った。
「あなたはフランで多くの学んだのですね」
「はい、フランの芸術は私の感性の琴線に触れました」
「そうでしたか」
彼は、静かに笑った。
「時代が変わるとき、必要なのは“技術”だけではなく、
“理解している人間”もです」
その言葉が、胸に残った。
◆ ◆ ◆
その日、図画省を出ると、夕暮れの光が石畳を染めていた。
これからは写真機が、もっと増えていくだろう。
それよって絵の役割は、変わる。
だが――消えはしない。
(線は、まだ終わっていない)
印象。
装飾。
国境を越える美。
それらを、どう描くか。
答えは、まだ先だ。
だが、確かに――
新しい時代の色が、そこにあった。




