閑話2 緑麗香(れいか)視点 フランからの使者
――崩れゆく祝福 はじまり
緑麗香の結婚式は、港湾都市・緑港の歴史に残るほど、盛大なものだった。
海沿いの大聖堂は、白い花で埋め尽くされていた。
百合、薔薇、南方から取り寄せた希少な花々。
潮風に乗って香りが広がり、参列者たちは皆、感嘆の声を漏らす。
それは、緑港伯家の財と権勢を、誰の目にも分かる形で誇示するための舞台だった。
各地の豪商、縁戚の貴族、外国交易の代理人。
港町という特性上、顔ぶれは国境を越えている。
花婿、沈琳道は、終始恭しく振る舞っていた。
控えめで、角の立たない男。
伯爵家の正妻を迎えるには、都合のいい相手。
(私が主で、この人は添え物)
そう思うことに、迷いはなかった。
純白のドレスに身を包み、麗香は微笑む。
注がれる視線、囁かれる賛辞。
「美しい」
「さすが緑港伯家のご息女だ」
胸の奥で、満足感が膨らんでいく。
(――私は、勝った)
愛蘭という邪魔者はいない。
婚約を破棄され、家から追われ、その名前すら忘れ去られた存在。
追放されたという噂は出た。
だが、噂など時間が経てば消える。
最後に残るのは、地位と立場だけだ。
幸福は、確かな形をしている――
この時の麗香は、そう信じて疑わなかった。
◆ ◆ ◆
結婚から三か月ほどが過ぎた頃。
港の役人が、いつになく慎重な様子で報せを持ってきた。
「奥様。フラン王国の大型貿易船が入港しております」
「フラン……?」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が微かにざわついた。
理由は分からない。
だが、嫌な予感というものは、理屈を伴わずに忍び寄る。
「船主のご子息が、ご挨拶を願っております」
断る理由はない。
むしろ、ここで緑港伯家の正妻としての格を見せる好機だ。
通された青年は、二十歳。フラン人である。
若さはあるが、幼さは感じられない。
淡い金色の髪は整えられ、澄んだ青い瞳は落ち着いていた。
姿勢、所作、視線の運び――すべてが洗練されている。
「はじめまして。アンソニーと申します」
穏やかだが、芯の通った声。
「フラン王国より参りました」
流暢な東国語だった。
発音に迷いはなく、長く東国語を学んだのだろう。
「フラン王立アカデミーを卒業した画家です。今年、二十になりました」
二十歳――
その年齢に、自然と視線が向く。
「父は、この船の主であり、フラン貴族の一人でもあります」
若いが、後ろ盾は十分。
それが、言葉にせずとも伝わってくる。
麗香は、微笑みを崩さず問いかけた。
「それで……本日は、どのようなご用件で?」
アンソニーは、遠回しな言い方をしなかった。
「この家に、愛蘭という女性がいると聞きました」
その名が、空気を切り裂く。
麗香の頬が、わずかに引きつった。
「……誰から、その名を?」
「フランでです」
アンソニーは、静かに続ける。
「彼女は、我々のアカデミーで学んでいました。才能ある画家で――」
一拍。
「フラン王族の血を引く者です。正式な保護対象でもある」
部屋の空気が、凍りついた。
麗香は、ゆっくりと扇を閉じる。
胸の奥で、警戒心が強く鳴り響いた。
だが、ここで怯えるわけにはいかない。
「残念ですが……その者は、もうこの家にはおりませんわ」
「どこへ?」
「婚約を破棄され、行方知れずですの」
そして、わざと冷たく付け加える。
「……もしかすると、どこかで野垂れ死んでいるかもしれませんわね」
沈琳道が、隣で息を呑むのが分かった。
だが、止める声は上がらない。
アンソニーの表情から、すっと血の気が引いた。
二十歳とは思えぬほど、感情を抑えたまま、低く問い返す。
「……今、何と?」
「婚約を破棄されたと」
麗香は、微笑んだ。
勝者の余裕を示すつもりで。
次の瞬間。
アンソニーの青い瞳に、はっきりと怒りが灯った。
「行方知れずで野垂れ死んでると言いましたね。それが事実なら――これは、国際問題です」
声は低く、揺れていない。
「フラン王族の血筋を引く者が、不当に扱われ、消息不明になった」
背筋に、冷たいものが走る。
「私は、この件を正式に報告します」
「ど、どこへ……?」
「東国の帝へです」
きっぱりと、断言する。
「フラン王国の王族として、抗議します」
「な……!」
「失礼する」
アンソニーは、礼も取らず踵を返した。
二十歳とは思えぬ、その背中の確かさに、
麗香は言いようのない不安を覚えた。
扉が閉まる音が、重く響く。
部屋に残ったのは、沈黙と――
胸の奥に初めて生まれた、焦りだった。
(そんなはずはない)
愛蘭は、もう終わった存在。
過去の女。
それなのに――
幸福とは、ひどく脆い。
愛蘭を追放したことの重大さを、麗香はまだ理解していなかった。




