閑話2 徳妃視点 周家の断罪
後宮を出るとき、私は振り返らなかった。
振り返れば、負けだと知っていたからだ。
夜の冷気が、肌を刺す。
絹の裾が、石畳を擦る音だけが、やけに大きく聞こえた。
(まだよ)
胸の奥で、私はそう呟く。
(私は、負けてなどいない)
◆ ◆ ◆
父・周仲謀の屋敷は、都の東、静かな文人街にある。
墨と紙の匂い。
庭には、父が好んだ老松。
――ここは、私の原点だ。
だが、門をくぐった瞬間、
違和感が、肌を撫でた。
人の気配が、多すぎる。
「……?」
足を止めた私の前に、
見慣れぬ男たちが並んでいた。
官服。
図画省、そして内廷監察の役人。
(……来た、のね)
◆ ◆ ◆
「徳妃様」
一人が、一歩前に出る。
「いえ――周氏の娘、とお呼びすべきでしょうか」
その言葉に、私は微笑んだ。
「ご苦労さま。父に、何かご用かしら?」
「御前画会に端を発した件について、調査の命が下りました」
「ずいぶん早いこと」
「陛下は、“パリスグリーン”を軽く見ておられません」
……あの女。
愛蘭の顔が、脳裏をよぎる。
(余計なことを)
◆ ◆ ◆
父は、奥の書斎にいた。
背は、少し丸くなった。
だが、筆を持つ姿勢は、昔と変わらない。
「……徳妃」
いや、もう、その呼び名ではない。
「帰ったのか」
父は、私を一瞥しただけで、そう言った。
「役人たちが来ている。心当たりはあるな?」
「……ええ」
私は、隠さなかった。
「父上。私は、間違ったことはしていません」
父は、筆を置いた。
「ほう?」
「西洋画は、危険です。
我々の芸術が壊されます。東洋画を穢す存在です」
「だから、危険を毒で示したと?」
その声は、低く、冷たい。
◆ ◆ ◆
「……それが、最も分かりやすい方法です」
私がそう言うと、
父は、目を閉じた。
「愚か者」
短い言葉。
だが、重かった。
「お前は、東洋の芸術を守ったつもりかもしれん。
だがな――」
父は、私を真正面から見た。
「それは、我々が守ってきた東洋芸術ではない。
ただの“殺し”だ」
◆ ◆ ◆
「倉庫を調べさせていただきます」
役人の声が、無慈悲に響く。
「……勝手に」
私は、扇を広げた。
(見られて困るものはない)
そう思っていた。
――あの時までは。
◆ ◆ ◆
「……これは」
倉庫の奥で、
役人の声が、わずかに震えた。
木箱。
封蝋。
西洋文字。
蓋が開かれる。
――緑。
眩いほどの、毒の色。
「大量のパリスグリーンでございます」
「購入記録も、こちらに」
羊皮紙が、差し出される。
リバプール商会の印。
周仲謀の名。
そして――私の指示を示す書き付け。
(……あ)
初めて、
喉が、ひくりと鳴った。
◆ ◆ ◆
「徳妃――いや、周氏」
役人が告げる。
「フラン国で禁制の毒性顔料を大量に購入、保管。
さらに、後宮の装飾に使用し、人命を危険に晒した罪」
「……」
「これは、弁明の余地はありません」
父が、ゆっくりと立ち上がった。
「この件、周家は一切関与していない」
「父上!?」
私は、思わず声を上げた。
父は、私を見ない。
「すべて、この娘の独断だ」
その言葉が、
刃のように、胸に刺さる。
◆ ◆ ◆
「……父上」
「黙れ」
初めて、父が私を叱った。
「お前は、“東国画”を盾に、
己の嫉妬と恐怖を正当化した」
「違います!」
「違わん」
父は、静かに言った。
「新しい芸術に敗れるのが怖かっただけだ」
◆ ◆ ◆
その場で、沙汰は下った。
爵位剥奪。
永久追放。
周家からの籍除名。
私は、笑った。
「……ふふ」
役人たちが、怪訝な顔をする。
「おかしい?」
私は、顔を上げた。
「誰よりも東洋芸術を愛する私が、東洋芸術を守ろうとしている私が、
東国の人間に断罪されるなんて」
皮肉すぎて悲しい。
◆ ◆ ◆
連れ出される直前、
私は、父を見た。
「父上」
彼は、視線を逸らしたまま。
「……東の絵は、守られるでしょうか」
父は、答えなかった。
それが、答えだった。
◆ ◆ ◆
夜。
罪人として、
私は、都を出る。
だが、胸の奥で、
炎は、まだ消えていない。
(今、東洋芸術は長い時をかけ、最高レベルの完成された高みに来ている)
ならば。
(さらなる高みに来る前に、西洋芸術に触れたら、もう高みに着けなくなる)
私は、闇の中で、微笑んだ。
――徳妃は、悪女として、
歴史に名を刻む。
それで、いい。
この国の“東洋芸術は終わった”のだ。
もう二度と、これ以上の高みに行くことはできない。
ならば、私に思い残すことはない。
◆ ◆ ◆
そして、遠く。
愛蘭という女が、
持ち込んだアールが、東洋と西洋とを繫ぐ、新しい時代を描こうとしていることを――
私は、まだ、知らなかった。




