プロローグ
天に浮かぶこの大都市――ヴォルケ。
雲海のはるか上、風すら届かぬ高さに、その白亜の輪郭はたゆたうように浮かんでいた。
空の都市とは名ばかりの幻ではない。
都市全体が巨大な浮遊基盤の上に築かれ、すべての営みがその高度で完結している。
無人運転のカーゴ便が静かに滑るように走り、重労働は多くをアンドロイドが担っていた。工場、運搬、清掃に至るまで、人の手はもはや補助的な存在でしかなかった。
車道らしいものはなく、都市の大半は歩行者優先の設計となっている。人通りの多い区域では、ガラス張りの歩道が空間を縫うように伸びており、足元からは遥か下の空――そして時に、雲の切れ間にちらりと覗く地上の輪郭さえも見えることがあった。
実に高所恐怖症にふさわしくないつくりではあるが、それほど天空というかつての憧れの地になじんでいる証左でもあった。
目に見えない、魔力伝達率の高いガラスが、都市全体を薄く包んでいるらしかった。
理屈や用途は教科書に記載しているくらいしかわからないが、どうやらこの透明の膜は、日差しを受けても熱を籠もらせず、魔力による冷却処理によって常に快適な温度を保っている。季節も風も、気まぐれに変化することはない。すべてが計算され、管理されていた。
当然ながら、ヴォルケの内部構造は一枚岩ではない。場所によっては明確に階層が分かれており、それぞれの区画には「魔力コア」と呼ばれる動力源が存在していた。
ファルベ大陸の上空、高軌道上には、各国が共同で管理する衛星型の宇宙ステーション群が軌道を描いていた。
その外殻には精巧な光集束パネルが設置され、太陽光から魔力エネルギーへの変換が行われている。集められた魔力は、大陸内の主要都市へ向けて分配され、さらにそれぞれの階層に設置された魔力コアへと供給されていた。
こうした大規模なエネルギー管理の恩恵により、この都市では昼夜の概念すら制御できる。
空間ごとに時間帯を設定できる人工太陽が開発されており、上層で朝を迎える人々と、下層で夜を楽しむ者たちが同時に存在することも珍しくはなかった。
生物にとって重要とされる時間感覚は、階層や生活圏によって干渉されることなく、個々の暮らしに寄り添う形で維持されている。
宇宙に視野を広げ、エネルギー供給までも実現している現代では、宇宙での防衛にまで突入し、星の中で戦う時代は終わりを迎えている。
そして今、ヴォルケはさらにその在り方を変えようとしていた。
国と国を繋ぐ新たな技術――「伝送ゲート」の試験運用が始まったのだ。
正式な実装はまだ先とされているが、短距離に限れば、低質量の物体を瞬時に移送する技術が実現されつつある。
それは、距離という概念さえも、やがて人類の記憶から消え去ることを意味していた。
科学技術と魔法技術は、互いの境界を溶かし合うように進化を遂げ、さらなる高みへと至っていた。
今やAIを見ない日はなく、都市の運営から個人の生活の細部に至るまで、あらゆる場面で頼られる存在となっている。機械は人の思考を補い、魔法はそれを支える土台となり、進化し続ける技術はかつて人類が夢見た楽園の姿を現実に近づけていた。
大昔のように、魔法の適性を持つ者だけが優遇される社会は、もはや存在しない。
誰もが持つわずかな魔力を流すだけで魔法を発現させる「魔道具」が開発され、天賦の才によって左右されていた人生は、平等へと近づいた。
炎を灯すことも、空を飛ぶことすら、もはや特別な才能を必要としない。必要なのは、道具に触れる意思と、その力を用いる目的だけだった。
誰しもが憧れた空中都市は、とうに夢物語ではなくなっていた。
子どもたちは雲の上で遊び、年寄りたちは風の中で日向ぼっこをする。それは特別な暮らしではなく、現代に生きる人間にとっての当たり前だった。
食品の生産すら空中に移った。高層温室や浮遊農園が、都市の外縁を環状に取り囲み、空気の浄化から水資源の循環まで一手に担っている。足元の透き通る床から地上を見下ろせば、その理由は嫌でも理解できた。
地上は、とうに失われた世界だった。端末のデータで知る植物の鮮やかな緑は、現実の地表には存在しない。
黒く乾いた地肌がどこまでも広がり、その上には、かつての都市だったであろう人工物が無秩序に崩れ落ちている。ところどころに残る植物でさえ、毒々しいまでに色を失い、あるいは病に侵されたような不気味さを帯びていた。
そんな植物を口にする地上の家畜を、人々が受け入れることはとうになくなっていた。
空中で育てられた家畜や作物も、今ではすっかり高級食材の部類に入ってしまった。
日常的に手ごろな食事を楽しみたいなら、選択肢は人工肉一択である。科学技術の進歩の賜物で、製法の詳細は知らずとも、その食感や風味は本物の肉とほとんど違いがない。
――こればかりは、人間の知恵に感謝するしかない。
そのようにして、人間はとうとう終わりの大地から目を背けたのだろう。
足を踏み入れることすらできないまま、ただ空から殺風景な光景を眺めるだけ。何が原因でこうなったのかは定かではない。だが、星そのものの意志が大地から人間を拒んでいる――それだけは疑いようのない事実だった。
それでも、人々は今の生活に満足していた。
温度も湿度も季節も、すべてが調整された居住区。飢えや渇きの心配もなく、人工の太陽が朝と夜を告げ、安定した循環が日々を繰り返す。地上の不毛な風景など、わざわざ思い出す必要もない――いや、思い出そうとする者、思い出せる者すら、もはや少なかった。
しかし、この都市の空はあまりにも高く、地上はあまりにも遠かった。
人々の視線は次第に下を向かなくなり、空の向こうや足元の雲の下に何があるのかを、語る者は減っていった。
高度な均衡と管理のもとで築かれたこの楽園は、ゆるやかに、しかし確実に、かつての世界の記憶を手放しつつあった。
タイトルはまだ未定で一時的につけております。
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