第9話:経費
接待の成功は、俺の社内での立場を少しだけ良いものに変えた。しかしまだ、月々のノルマという現実的な壁が、重くのしかかっている。日々の営業活動には、当然ながら経費がかかる。
交通費、交際費、雑費。それらは月末にまとめて精算するのだが、俺はこの作業が、三度の飯より嫌いだった。領収書の束を見るだけで、うんざりする。一枚一枚、日付と金額を確認し、専用の用紙に貼り付け、用途を記入する。その作業の、なんと非生産的なことか。俺はいつも、締め切りギリギリまで溜め込み、半泣きで処理するのが常だった。
その日も、俺はリビングのテーブルに領収書の山を築き、遠い目をしていた。先月の俺は、一体どれだけ電車に乗り、どれだけコーヒーを飲んだのか。もはや、記憶の彼方だ。
「ああ……面倒くさい……」
深いため息をついた、その時。いつものように、部長が音もなく俺の傍らに現れた。
――佐藤くん。その態度はなんだね。コスト意識が低いにも程がある。
脳内に響く声は、経理部のベテラン社員のように、厳格で細かい。
「うっ……。だって、面倒なんだよ、これは。数字ばっかりで、頭が痛くなる」
俺が弱音を吐くと、部長は呆れたように鼻を鳴らした。
――君が使った経費は、会社から借りている金銭だ。それを、何に、いくら使ったのかを明確に報告するのは、社員としての当然の義務だろう。それを怠るとは、言語道断。だいたい、君は……
始まった。部長の、いつものお説教だ。俺は、うんざりしながらも、その声に耳を傾けざるを得なかった。部長の説教は、会社の経費が、他の社員たちの汗と努力の結晶であることから始まり、無駄な経費を削減することが、いかに会社の利益に貢献するかにまで及んだ。その内容は、驚くほど正論で、ぐうの音も出ない。
俺は、観念して、領収書の山と向き合い始めた。一枚一枚、仕分けをしていく。交通費、会議費、接待交際費……。その時、俺の作業をじっと監督していた部長が、すっと立ち上がり、キッチンへと向かった。そして、ある棚の前で足を止め、こちらを振り返った。その目は、有無を言わさぬ力強さを宿している。
――佐藤くん。
「……なんだよ」
――経費で落としてほしいものがある。
「はあ? お前の何を経費で落とすんだよ。お前、社員じゃねえだろ」
俺が呆れて言うと、部長は、まるで当然の権利を主張するかのように、胸を張った。
――私は、この家の士気を管理するという、極めて重要な業務を担っている。私のパフォーマンスが、君の営業成績に直結することは、これまでの実績が証明しているはずだ。よって、私のパフォーマンスを維持・向上させるための投資は、必要経冷費と見なされるべきだ。
なんという、理不尽かつ完璧なロジック。俺は、もはや反論する気力もなかった。
「……で、その必要経費とやらは、なんなんだよ」
部長は、顎で、棚の上をくいっと示した。そこには、先日俺が奮発して買った、一本百円以上もする、高級な液状おやつ「ちゅ〜る」の箱が鎮座している。
――あれだ。プレミアムちゅ〜る、まぐろ・かつおバラエティ。これは、経費で落ちるかね?
その問いかけは、あまりにも真剣だった。俺は、目の前の領収書の山と、棚の上のちゅ〜るを見比べた。そして、思わず吹き出してしまった。会社の経費と、我が家の「必要経費」。俺は、今まで、会社の金を、どこか他人事のように感じていたかもしれない。だから、経費精算も面倒な「作業」でしかなかった。
だが、この家では、俺が稼いだ金が、部長のちゅ〜るになる。俺の財布から、直接、経費が支払われる。その実感は、ひどく生々しい。コスト意識。それは、会社の金を、自分の金のように大切に思うことから始まるのかもしれない。部長は、身をもって、そのことを俺に教えようとしているのではないか。
俺は立ち上がり、ちゅ〜るの箱を手に取った。
「……分かったよ。これは、必要経費として認めよう」
俺が言うと、部長の目が、きらりと輝いた。
「ただし!」
と、俺は付け加える。
「ちゃんと、領収書を書いてもらうからな。宛名は、俺。但し書きは、『士気向上費』として。いいな?」
我ながら、馬鹿げた提案だと思った。だが、部長は、こくりと、威厳たっぷりに頷いた。
――承知した。
俺は、ちゅ〜るの封を切り、小皿に出してやった。部長は、それを、うっとりとした表情で舐め始める。その姿を眺めながら、俺は、領収書の整理を再開した。不思議と、先ほどまでの億劫な気持ちは消えていた。
この一枚一枚の紙切れが、俺と会社の、そして、俺と部長の繋がりを証明しているような気がした。面倒な作業も、見方を変えれば、大切な記録。
俺は、なんだか、経理部の人の気持ちが、少しだけ分かったような気がした。月末の経費精算は、それ以来、俺にとって、それほど苦痛な作業ではなくなったのだった。