第7話:報・連・相
競合分析の重要性に目覚めた俺は、人が変わったように情報収集に奔走した。高畑の動向、彼が扱う商品の評判、そして彼が攻めあぐねている得意先。断片的な情報を繋ぎ合わせるうちに、巨大に見えた黒船にも、いくつかの弱点があることが見えてきた。
その日は、重要な情報を掴んだ日だった。高畑が、ある大手スーパーとの大型契約に失敗したらしい。原因は、細かな要望への対応の遅さ。大企業ならではの、小回りの利かなさという弱点が露呈した形だ。これは、俺のような弱小メーカーにとっては千載一遇のチャンスだった。
俺は、この情報をすぐに会社の鈴木部長に報告すべきだと判断した。しかし、その時、別の得意先から緊急の呼び出しがかかってしまった。「まあ、いいか。明日の朝一で報告すれば」俺は、そう安易に考え、目の前のトラブル対応を優先した。それが、命取りになるとも知らずに。
翌朝。俺が出社すると、営業部の空気は凍りついていた。鈴木部長が、鬼のような形相で俺を待ち構えていたのだ。
「佐藤くん!!!」
地を這うような低い声が、フロアに響き渡る。
「なぜ、昨日のうちに報告しなかった! あのスーパーの件、競合に先を越されたぞ! 君がすぐに報告していれば、我が社が契約できたかもしれんのだ!」
俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。血の気が、さあっと引いていく。俺の、たった一日の判断の遅れが、会社に大きな損失を与えてしまったのだ。その後、俺がどれほど厳しく叱責されたかは、もはや語るまでもない。俺は、ただ、縮こまって嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
その日の帰り道は、これまでで最も重かった。罪悪感と自己嫌悪で、アスファルトに身体ごと溶けてしまいそうだった。アパートのドアを開けると、部長がいつものようにソファの上から俺を見下ろしていた。その目は、今日の俺の失態を、すべてお見通しであるかのように鋭い。俺は、逃げるように部長から視線を逸らし、鞄を床に置いた。
――佐藤くん。
脳内に、冷たい声が響く。
――なぜ、すぐに報告しなかったのかね?
それは、今日の昼間、鈴木部長に言われたのと、全く同じ言葉だった。俺は、俯いたまま、か細い声で答えた。
「……急な、用事が、入って……」
――言い訳は無用だ。君は、情報の重要性と、即時性を理解していなかった。それだけのことだ。報・連・相。報告、連絡、相談。社会人のイロハのイだ。なぜ、それができんのだ。
部長の説教は、ぐさぐさと、傷口に塩を塗り込むように俺の心に突き刺さる。
「分かってるよ! 分かってるけど、できなかったんだよ! もう、ほっといてくれ!」
俺は、声を荒らげた。八つ当たりだと分かっていた。だが、そうせずにはいられなかった。部長は、そんな俺を静かに見つめていたが、やがて、ふいとソファから降り、トイレスペースへと向かっていった。そして、中でしばらくゴソゴソと何かをしていたかと思うと、すぐに俺の元へと戻ってきた。そして、俺の目の前で、キリッとした「上司」の顔を作ると、高らかに宣言した。
――佐藤くん。報告する。
「……は?」
――ただいま、トイレ(大)を完了した。ついては、砂のコンディションが著しく低下しているため、速やかな補充を要求する。以上だ。
あまりにも、どうでもいい報告だった。しかも、その表情は、国家の機密事項を報告するかのように、真剣そのものである。俺は、あまりの馬鹿馬鹿しさに、怒る気力も失せてしまった。
「……ああ、そうか。分かったよ」
俺が力なく答えると、部長はさらに続けた。
――連絡する。先ほど、君が床に置いた鞄の横を通り過ぎた際、私の尻尾がわずかに触れた可能性がある。重要書類等への影響がないか、確認を怠らぬように。
「……ああ」
――最後に、相談だ。近頃、カリカリの風味が落ちているように感じるのだが、これは私の体調の問題か、それとも品質の問題か。君の見解を聞きたい。
俺は、もう、笑うしかなかった。
「はは……ははははは!」
乾いた笑いが、部屋に響く。なんだ、これは。壮大なコントか何かか。だが、笑っているうちに、俺は気づいた。部長は、俺を責めているのではない。身をもって、「報・連・相」とは何かを、教えてくれているのだ。どんな些細なことでも、すぐに伝える。それが、組織の歯車を円滑に回すための潤滑油になる。
トイレの砂のコンディションは、部長にとっては死活問題だ。カリカリの風味は、彼のQOLに直結する。それらを、彼は逐一、担当者である俺に報告し、連絡し、相談している。それに比べて、俺はどうだ。自分の判断で、情報の価値を勝手に決めつけ、報告を後回しにした。その結果が、今日の惨状だ。俺は、立ち上がり、部長の前にしゃがみこんだ。
「……悪かった、部長。俺が、間違ってた」
部長は、何も言わず、ただ俺の顔をじっと見つめていた。
「ありがとうな。……身に染みたよ、報連相」
俺は、猫のトイレに向かい、新しい砂をザラザラと補充した。その単純な作業が、なぜか、ひどく神聖なものに思えた。失敗から学ぶ。口で言うのは簡単だが、実行するのは難しい。だが、俺には、どんな失敗をしても、厳しく、そしてどこか滑稽な方法で、その本質を教えてくれる上司がいる。世界一、頼りになる、猫の上司が。