第5話:休日出勤
暦の上では休日と定められた土曜日の空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。世間の人々が家族と笑い合い、あるいは恋人と肩を寄せ合うであろうその日に、俺、佐藤健太は、重い足取りで会社へと向かっていた。急なトラブル対応による、休日出勤である。平日の疲れを引きずった身体は鉛のように重く、心は乾いたスポンジのように、喜びも悲しみも吸い込まない。ただ、無感動に、アスファルトを蹴るだけだった。
家を出る時、部長はソファの上で優雅に毛づくろいをしていた。俺が「行ってくる」と声をかけると、ちらりとこちらに視線を寄越し、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。その態度は、まるで「休日も働かされるとは、君も三流だな」とでも言いたげで、俺のささくれた心を、さらに逆撫でするのだった。
トラブル処理は、案の定、一筋縄ではいかなかった。関係各所への連絡、謝罪、そして膨大な量の書類作成。時計の針が真上を指す頃には、俺は心身ともに搾りかすのようになっていた。会社の窓から見える夜景は、まるで俺の疲労を嘲笑うかのように、無神経にきらめいている。
ようやく全ての作業を終え、がらんとしたオフィスを出た時には、日付が変わろうとしていた。空には、気の早い月が浮かんでいる。俺は、幽霊のような足取りで、我が家というより、もはや部長の城と化したあのアパートへと向かった。
ドアを開けると、部屋はしんと静まり返っていた。明かりをつけると、ソファの上には部長の姿はない。どこへ行ったのかとあたりを見回した、その時だった。足元に、ふわり、と温かい感触があった。見下ろすと、そこに部長がいた。俺の足に、そっと身体をすり寄せている。いつもは尊大で、自ら媚びるような素振りなど微塵も見せないあの部長が。
「……どうしたんだよ、部長」
俺の声は、疲労でかすれていた。部長は、何も言わなかった。いや、脳内に声は響いてこない。ただ、ゴロゴロ、ゴロゴロと、エンジンのような低い喉鳴りの音だけが、静かな部屋に響き渡っていた。その振動が、俺のズボンの裾を通して、じわりと足に伝わってくる。それは、まるで労いの言葉のように聞こえた。「休日出勤、お疲れ様」と、そう言われているような気がした。
俺は、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。部長の背中を、そっと撫でる。その毛並みは柔らかく、そして驚くほど温かかった。いつもは厳しい説教ばかりの部長が見せる、不器用な優しさ。そのギャップに、不覚にも、じわりと目の奥が熱くなった。乾ききっていたはずの心に、温かい雫が落ちるのを感じた。
しばらく、俺たちはそうしていた。ただ、静かな時間が流れる。俺は撫で、部長は喉を鳴らす。それは、どんな言葉よりも雄弁な、俺たちだけのコミュニケーションだった。やがて、部長はすっと俺から離れ、キッチンの方へ歩いていく。そして、餌の皿が置いてある棚の前で足を止め、こちらを振り返った。その金色の瞳が、何かを期待するように、きらりと光る。その時、脳内に、久しぶりの声が響いた。
――……よくやった、佐藤くん。これは、君への臨時ボーナスだ。存分に味わうがいい。
「……は?」
俺は、一瞬、何を言われているのか分からなかった。臨時ボーナス? 俺に?しかし、部長の視線が、棚の上に置いてある、あるものを捉えているのを見て、合点がいった。それは、先日、俺が自分へのささやかなご褒美として買った、最高級の本枯節、つまり鰹節だった。
「いや、待て待て。ボーナスって、それ、俺のじゃないか。しかも、お前が食うのかよ」
俺のツッコミも虚しく、部長は「当然だろう?」と言わんばかりに、キリッとした「上司」の顔で俺を見据えている。
――君の成果は、すなわち組織の成果。そして、組織の利益は、然るべき形で構成員に還元されねばならん。これは、マネジメントの基本だ。さあ、早くしたまえ。
そのあまりの言い草に、俺は力が抜けて、笑ってしまった。なんだ、結局はそれが目的か。さっきの優しいゴロゴロは、このための布石だったのか。だが、不思議と、腹は立たなかった。むしろ、その分かりやすい強欲さが、愛おしくさえ感じられた。
俺は立ち上がり、棚から鰹節の袋を取り出した。袋を開けると、芳醇な香りがふわりと広がる。部長の喉鳴りのボリュームが、一段階上がったのが分かった。小皿に、薄く削られた鰹節をひとつまみ。部長は、それを、普段の威厳はどこへやら、夢中になって食べ始めた。その小さな頭が、一心不乱に揺れている。
疲れ果てて帰ってきた、真夜中のアパート。床に座り込み、鰹節を頬張る猫を眺める。それは、傍から見れば、ひどく滑稽で、侘しい光景だったかもしれない。だが、俺にとっては、どんな豪華な夜景よりも、どんな慰めの言葉よりも、心に沁みる、温かい時間だった。
俺は、この口うるさくて、わがままな上司に、どうやら本気で、胃袋だけでなく、心まで掴まれ始めているらしい。そう認めざるを得なかった。