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第3話:そのネクタイはTPO違反

喋る猫との衝撃的な一夜が明け、俺、佐藤健太は、昨夜の出来事が壮大な悪夢であった可能性に、最後の望みを賭けていた。疲労とストレスが生み出した、精巧すぎる幻覚。そうに違いない。猫が喋るなど、常識的に考えてあり得ないのだから。


朝日が差し込む部屋は、昨夜の強制労働のおかげで、嘘のように片付いている。俺は身体を起こし、部屋の主役であるソファに目をやった。そこに、部長はいた。猫特有の優雅な姿勢でちょこんと座り、窓の外を眺めている。その背中からは、昨夜のような威圧感は感じられない。


「……だよな。ただの猫だよな」

俺は安堵のため息をつき、ベッドから這い出した。昨日はよほど疲れていたらしい。しかし、俺のささやかな希望は、ものの数分で打ち砕かれることになる。いつものように寝坊気味の俺は、慌ただしく身支度を始めた。顔を洗い、歯を磨き、冷蔵庫から出した牛乳を一気に流し込む。クローゼットから引っ張り出したYシャツは、案の定、シワだらけだったが、気にしている暇はない。ジャケットを羽織れば見えない、と自分に言い聞かせ、適当なネクタイを掴んで首に巻いた。


「よし、行ってきます」

誰に言うでもなく呟き、玄関へ向かう。と、その行く手を阻むように、いつの間にか部長が立ちはだかっていた。まるで関所を守る番人のように、どっしりと。


「ん? どうした、部長。餌か?」俺が屈み込んで頭を撫でようとした、その時だった。

――待て、佐藤くん。


脳内に、再びあの低く、威厳のある声が響いた。紛れもない、昨夜の声だ。俺の身体が、石のように固まる。

――その格好で、お客様の前に立つつもりかね?


部長は、俺の足元から頭のてっぺんまでを、値踏みするようにじろりと見上げた。その視線は、まるで粗探しをする品質管理部の検査官のように鋭い。


「……な、なんだよ。別に、いつも通りじゃないか」

俺はしどろもどろに答えた。夢ではなかった。この猫は、本当に喋るのだ。そして、朝から説教を始める気らしい。

――いつも通り。それが問題だと言っているのだ。まず、そのYシャツ。シワだらけではないか。アイロンをかけるという基本的な手間を惜しむ者に、丁寧な仕事ができるとは思えん。第一、清潔感に欠ける。


「う……」

――次に、そのネクタイ。結び目が緩み、剣先が不自然に曲がっている。だらしない印象を与えるだけだ。そもそも、その色と柄は、今日の君の訪問先に対して適切なのかね? TPOをわきまえるのは、ビジネスの基本中の基本だぞ。


「TPOって……お前、猫のくせに……」

――私が猫であることと、君の身だしなみが社会人として落第レベルであることの間に、何か(以下略)。


昨日と同じ論法で、俺の反論はあっさりと封じられた。部長はなおも続ける。

――そして、その靴。つま先が擦り切れ、埃をかぶっている。営業は足で稼ぐと言うが、汚れた靴で得意先を回る営業マンを、誰が信用するというのだ。細部へのこだわりが、全体の印象を決定づけるのだ。分かっているのかね?


返す言葉もなかった。指摘された箇所は、すべて図星だったからだ。俺はこれまで、身だしなみなどというものに、ほとんど頓着してこなかった。小綺麗にしていようが、していまいが、俺の営業成績が劇的に変わるわけがない、と高を括っていた。だが、猫の姿をした部長に、ここまで理路整然と、かつ厳しく指摘されると、自分の怠惰さが恥ずかしくなってくる。まるで、自分の見苦しい部分を鏡に突きつけられているような気分だった。


「……分かったよ。分かったから、どいてくれ。もう時間がないんだ」

俺が懇願するように言うと、部長はふん、と鼻を鳴らした。

――時間は作るものだ。いいから、Yシャツを着替え、アイロンをかけろ。ネクタイも、今日は無地の紺に変えたまえ。その方が誠実な印象を与える。靴も磨け。五分で終わらせろ。


それは、やはり有無を言わさぬ命令だった。俺は、観念したようにため息をつき、リビングへと引き返した。クローゼットの奥から、ほとんど着たことのない新品同様のYシャツを引っ張り出す。ホコリをかぶっていたアイロン台をセットし、慣れない手つきでアイロンを滑らせた。その間も、部長は少し離れた場所から、俺の作業をじっと監督している。その視線が、背中に突き刺さるようだった。


ネクタイを締め直し、玄関で靴を磨く。布で革をこすると、くすんでいた表面に鈍い光が蘇った。こんなに真剣に靴を磨いたのは、入社式の日以来かもしれない。全ての「修正作業」を終えた俺が、再び玄関に立つ。部長は、もう一度、俺の全身を舐めるように見ると、小さく頷いた。


――よろしい。やればできるではないか。では、行ってよし。今日のノルマ、必ず達成したまえ。


「……行ってきます」

まるで、親に送り出される子供のような気分だった。ドアを閉める直前、部長が「ああ、それから」と付け加えた。

――帰りに、鰹節を買ってくるように。最高級のやつだ。これも業務命令と心得るように。


最後の最後に、猫としての本音を覗かせたのが、少しだけおかしかった。

会社へ向かう道すがら、ショーウィンドウに映る自分の姿に、ふと目が留まった。シワのないシャツ。きっちりと締められたネクタイ。光を反射する革靴。それは、いつもより少しだけ、いや、かなりまともに見える俺だった。背筋が、自然と伸びていることに気づく。気分が、悪いわけではなかった。むしろ、どこか清々しい。


会社に着くと、受付の女性に「佐藤さん、今日、なんだか素敵ですね」と声をかけられた。お世辞だろうとは思いつつも、顔が熱くなるのを感じた。あの部長の説教は、腹立たしいことこの上ない。だが、その指摘が的確であることも、また認めざるを得ない事実だった。


俺は、あの上司猫との奇妙な同居生活に、少しずつ、しかし確実に、影響され始めている。それが吉と出るか、凶と出るか。それはまだ、神と、そしてあの猫のみが知ることなのだろう。

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