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第2話:初日の業務命令

部長との奇妙な同居生活が始まって、一夜が明けた。昨夜の宣言の後、部長は部屋の隅々を巡回するように歩き回り、最終的には俺の安物のソファの一番良い場所を陣取って眠りについた。その寝姿すら、どこかふてぶてしい。


俺はと言えば、脱ぎっぱなしのYシャツやコンビニ弁当のゴミが散乱する床の上で、安物の布団にくるまった。部屋の主であるはずの俺が、まるで居候のような有様である。だが、それでもよかった。同じ空間に温かい命の気配がある。それだけで、心のささくれが少しだけ癒える気がしたのだ。


会社での一日は、昨日と何ら変わりはなかった。鈴木部長の雷が落ち、同僚の憐れむような視線を浴び、得意先には頭を下げ続けた。だが、俺の心には、ささやかな拠り所が生まれていた。

「まあいい。家に帰れば、俺にも『部長』がいるんだ」

もちろん、俺が主導権を握る方の、である。すっかり日の暮れた道を、昨日よりは幾分か軽い足取りでアパートへと向かう。ドアを開ける瞬間の、あの小さな高揚感。ただいま、と言える相手がいる。それは、これまでの俺の人生にはなかった感覚だった。


「ただいま、部長」

ドアを開け、声をかける。返事はない。当たり前だ、相手は猫なのだから。しかし、部屋に足を踏み入れた俺は、思わず息を呑んだ。部屋の中央。コンビニの袋や読み終えた雑誌が小さな山を成す、その混沌の中心に、部長が鎮座していた。昨日と同じく、胸の前で前足を交差させ、腕を組むかのようなポーズで。

そして、その厳格な眼差しは、真っ直ぐに俺へと向けられていた。なんだ、その目は。出迎えか? それにしては、歓迎の色がまるでない。むしろ、何かを(とが)めるような、非難するような光を宿している。俺は、まるで抜き打ち査察に踏み込まれたダメ支店の店長のような気分になった。


「はは、なんだよ、部長。腹でも減ったか?」

俺はわざと明るい声を出し、鞄を床に放り投げた。その瞬間だった。

――佐藤くん。


低く、そしてどこか聞き覚えのある、威厳に満ちた声が、頭の中に直接響き渡った。俺は動きを止めた。あたりを見回す。部屋には俺と部長しかいない。テレビもついていない。幻聴か? 疲労が遂に俺の脳を侵し始めたのか。


「……気のせい、だよな」

そう呟き、上着を脱ごうとした、まさにその時。

――その前に、まずこの部屋を片付けたまえ。環境整備は、業務改善の第一歩だぞ。


今度は、はっきりと聞こえた。いや、聞こえたのではない。脳髄に直接、言葉が送り込まれてくるような、奇妙な感覚。俺は硬直したまま、ゆっくりと声の主を探した。そして、視線は自ずと、部屋の中央に鎮座する猫へと引き寄せられた。部長は、微動だにしない。ただ、その金色の瞳だけが、心底呆れた、とでも言いたげに俺を射抜いている。


「……ぶ、部長……?」

俺の声は、情けなく震えていた。

――いかにも私が部長だ。何か問題でも?


その声は、紛れもなく目の前の猫から発せられていた。口は動いていない。だが、その思考が、意思が、ダイレクトに俺の意識へと流れ込んでくる。なんだこれは。悪夢か。それとも、俺はとうとう狂ってしまったのか。


「な、なんで……猫が……」

――私が猫であることと、君の生活態度が劣悪であることの間に、何か因果関係があるのかね? 論点をすり替えるのは、君の悪い癖だ。


ぐうの音も出なかった。その理詰めの口調は、まさしく会社の鈴木部長そのものではないか。俺はへなへなと、その場に座り込んだ。目の前の現実が、にわかには信じられない。猫が喋る。しかも、脳内に直接。そして、説教を垂れている。情報量が多すぎて、俺の貧弱な脳の処理能力は完全に限界を超えていた。部長は、そんな俺を見下ろし、ひとつ、ため息をつくかのように鼻を鳴らした。


――いいかね、佐藤くん。この部屋の状態は、君の頭の中を如実に表している。整理整頓ができていない。つまり、思考がまとまっていないということだ。だから仕事で成果が出ない。自ずと、私生活も乱れる。すべては繋がっているのだよ。


その説教は、不思議な説得力を持っていた。会社の鈴木部長に同じことを言われたら、ただただ反発と萎縮を覚えるだけだろう。だが、目の前の、ずんぐりむっくりの猫に言われると、なぜか、すんなりと胸に落ちてくる。俺は、床に散らばった己の怠惰の残骸を見回した。脱ぎ捨てた靴下。飲みかけのペットボトル。いつのものか分からない郵便物。確かに、これはひどい。ひどいなんてものではない。文明人の住処とは到底呼べない有様だ。


――まずは、そこにあるゴミ袋に、不要なものをすべて詰め込むんだ。判断基準は、今後一ヶ月以内に使う可能性があるかないか。迷うものは、即刻廃棄。いいな、開始したまえ。


それは、命令だった。拒否権など微塵も感じさせない、絶対的な業務命令。俺は、まるで操り人形のように立ち上がり、ゴミ袋を手に取った。なぜだか、逆らう気になれなかった。

部長のその金色の瞳に見据えられると、身体が勝手に動いてしまうのだ。俺は黙々と、ゴミを拾い集め始めた。部長はソファの上に移動し、なおも腕を組んだまま、俺の作業の一部始終を監督している。その姿は、現場を視察する厳格な工場長のようだった。


時折、「そこは違う。燃えるゴミだ」「その雑誌はもう読まんだろう。即時廃棄」

などと、的確かつ容赦ない指示が飛んでくる。汗が額を伝った。それは、肉体的な疲労から来るものだけではなかった。精神的な圧迫感。四六時中、上司に見張られているという、あの息の詰まる感覚。俺は、癒やしを求めて猫を飼ったはずだ。それなのに、なぜ、休まるはずの自宅で、こんなにも厳しい労務に従事しているのか。だが、不思議なことに、部屋が片付いていくにつれて、澱のように溜まっていた俺の心のもやもやも、少しずつ晴れていくような気がした。床が見え、テーブルの上がきれいになり、空気が澄んでいく。


一時間後。部屋は、俺がこのアパートに越してきて以来、最も美しい状態を取り戻していた。俺は、ぜえぜえと息を切らしながら、その変わり果てた、というより元に戻った自室を見回した。

――よろしい。今日はここまでだ。だが、この状態を維持することが肝要だ。明日、抜き打ちでチェックするから、そのつもりで。


部長はそう言うと、ふぁあ、と大きなあくびを一つした。その瞬間だけ、彼はただの眠たい猫に見えた。俺は、まだ夢を見ているような気分だった。だが、きれいになった部屋と、ソファの上で再びふてぶてしく丸くなる部長の姿は、紛れもない現実だった。


こうして、俺と喋る上司猫、「部長」との奇妙な同居生活、いや、初日の研修は、強制的な環境整備という業務命令と共に、幕を開けたのであった。

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