第1話:辞令、本日付けで我が家へ
アスファルトに滲んで消えていくのは、夕立の雨跡か、それとも俺の魂か。佐藤健太、二十八歳。中堅食品メーカーの営業マン。彼の今日の営業日報には、ただ「特記事項なし」とだけ記すのが精一杯であった。いや、正確に言えば、特記事項はあったのだ。会社の鬼部長から、会議室で一時間半にわたり、人格の根幹を揺るがすほどの叱責を受けたという、あまりにも特筆すべき事項が。
「佐藤くん、君の報告書はなんだね、これは。小学生の読書感想文かね? 我々の仕事は遊びではないのだよ。気合が足りん、熱意が足りん、そもそも社会人としての自覚が足りん!」
ガラスの向こうで揺れる街路樹の緑が、やけに目に染みた。鈴木部長の眉間には、あたかも地殻変動によって刻まれたかのような深い縦皺が走り、その厳格な相貌は、獲物を見据える鷹のそれに近しい。俺、佐藤健太は、その鷹に骨の髄までしゃぶられ、羽毛一本残さず食い散らかされた雛鳥に等しかった。
営業車を会社の駐車場に戻し、重い足取りでアパートへの道を歩く。安物の革靴が、すり減った魂のように悲鳴を上げた。月々のノルマという名の巨大な壁。それを前にして、俺はいつも無力だった。人当たりは良い、と人は言う。だがそれは、単に押しが弱く、NOと言えないだけの卑屈さの裏返しに過ぎない。そんな自分に心底うんざりし、この灰色の日々から逃れるための何かが、喉から手が出るほど欲しかった。
癒やし。そう、癒やしだ。その甘美な響きに導かれるように、俺は先月、なけなしの貯金を叩いてペット可の物件へと越したのだ。空っぽの部屋に、温かい命の気配を迎え入れたい。誰にも叱られることなく、ただそこにいてくれるだけでいい。無条件の肯定。それこそが、今の俺が最も渇望しているものであった。
そして今日、俺の足は、まるで何かに引かれるように、駅裏の路地にひっそりと佇む「陽だまりの家」という、少々気恥ずかしい名前の保護猫シェルターへと向かっていた。消毒液の匂いが鼻をつく。いくつものケージが並び、その中には様々な境遇を経てここに辿り着いたであろう猫たちが、思い思いの姿で過ごしていた。人懐こくすり寄ってくる子猫。警戒心を解かず、ケージの奥でこちらを睨む三毛。
俺は、ただぼんやりと、その命の群れを眺めていた。どの猫も愛らしく、どの猫も尊い。だが、心の琴線に触れる、という感覚には至らなかった。俺が求めているのは、もっとこう、運命的な何か……。そう考えた矢先だった。視線を感じた。
一番奥の、少し薄暗いケージの中。そこに、一匹の猫が鎮座していた。他の猫のように媚びるでもなく、怯えるでもない。ずんぐりとしたキジトラの巨体は、まるで年代物の革張りのソファのようなどっしりとした安定感を放ち、胸の前で交差させた前足は、腕を組む人間のそれを彷彿とさせた。そして、顔。何よりも、その顔だ。眉間のあたりに走る模様が、奇しくも深いシワのように見え、やや吊り上がった目は、こちらを値踏みし、査定しているかのごとき鋭さを宿している。そのふてぶてしくも威厳に満ちた表情は、紛れもなく、今日の昼間、俺の精神を粉砕したあの男、鈴木部長の生き写しであった。
俺は息を呑んだ。全身に奇妙な悪寒が走る。なぜ、こんな場所でまで上司の顔を見なければならんのだ。癒やしを求めて来たというのに、これではストレスの上塗りでしかない。踵を返そうとした、その時だった。猫が、ふい、と顔を背けた。その仕草が、まるで「話にならん」とでも言いたげに見えて、俺の心の奥底で、何かがぷつりと切れた。
反抗心、と呼ぶにはあまりに小さく、幼稚な感情だったのかもしれない。
「……面白い」
口から、乾いた笑みが漏れた。会社では、俺は永遠に部長の部下だ。だが、もし、この部長そっくりの猫を俺が引き取ったとしたら? 家という俺の城においては、俺が飼い主であり、こいつは飼われる側。つまり、俺が「上司」になれるのではないか。食わせてもらう立場のくせに、その尊大な態度はなんだ。俺が、そのふてぶてしい鼻っ柱をへし折ってやる。
半ばヤケクソだった。スタッフに声をかけ、あのキジトラを引き取りたいと告げると、少し驚いたような顔をした。
「あの子ですか? なかなか人に慣れなくて……でも、とても賢い子なんですよ」
手続きは滞りなく進んだ。キャリーケースの中で、猫は一度も鳴かず、ただじっと、その鋭い目で俺を見据えていた。
アパートのドアを開け、キャリーの扉を開放する。猫は、ゆっくりと、しかし堂々とした足取りで部屋の中央まで歩を進め、あたりを見回した。その姿は、まるで新しい支社に赴任してきた重役のようであった。俺は、そのふんぞり返った背中に向かって、宣言した。
「いいか、よく聞け。今日からここが、お前の新しい部署だ。そして、俺が、お前の上司だ」
我ながら、馬鹿げた芝居だと思った。だが、少しだけ胸がすく思いがした。
「それでだ。お前の名前だが……今日からお前は、『部長』だ」
言ってやった。この上ない皮肉と、ほんのわずかな優越感を込めて。猫、いや、部長は、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、やはりあの憎き鈴木部長にそっくりで、その目はまるで「辞令、確かに拝命した」とでも言いたげに、深く、静かに俺を射抜いていた。
この時、俺はまだ知る由もなかった。この日、我が家に着任した「部長」が、俺の人生そのものを根底から覆す、本物の上司以上の「上司」になるということを。
ひとまず、これで安眠できる。家でくらいは、俺が主導権を握れるのだ。そう、信じて疑わなかった。