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5杯目 タセオグラフィー ①

「それじゃあ、よろしく頼む」

 酒井裕志はそう言って、電話を切った。

 スマホを鞄の中にしまうと、座席に深く身体を預けて、疲労がこもった息を漏らす。

 部下から新しいプロジェクトのトラブルについて、助言を求める電話だった。最近は会社の外にいても、落ち着く暇がない。

 いや、それだけが原因ではないだろう。ここ数日の間は、妙に気が重かった。

 明確な悩みは差し当たって思い当たらない。ただ漠然とした不安が、ときおり自身の立場に疑問が浮かぶようになったのだ。出世コースをがむしゃらに突き進んで来て、30年余り。同期や上司を追い越して、気付けば社長にまで上り詰めた。ふとこれまでの道を振り返ったときに、本当に自分に相応しいのか判らなくなったのだ。

 決して答えがみつかることはない。

 そんなことは分かっている。分かってはいても、考えずにはいられなかった。

「このまま会社に戻りますか?」

 ふと、社用車を運転をする秘書が問いかけてきた。

 酒井は息を飲んで、考え込むように車窓の外を眺めた。

 新緑が鮮やかな並木道が続き、そこに午後の陽射しが柔らかく差し込んでいる。ビル街の喧騒ですら、少しだけ心が落ち着いた。

 そして、ここ数日の忙しさに嫌気が差して、ふと立ち止まりたくなった。

「いや、寄るところがある」

 酒井は秘書に目的の場所を伝えると、再び座席に身体を預けた。


「本日はいかがしましょうか?」

 店主の猫・ミアが静かで落ち着いた声で、カウンター席に座る酒井に問いかけた。

 都会にはない柔和な雰囲気が、店内にあふれている。

 酒井は椅子に深く腰掛け、テーブルの木目を指先でなぞるように触れながら、店内を見渡した。久しぶりの来訪ということもあり、安堵が胸に湧いてくる。

「今日は久しぶりに、タセオグラフィーをやりたいんだ」

 酒井は控えめな声でそう告げた。まるで遠慮がちに頼むのが彼の性分であるかのように、わずかに視線を落としている。

「はい。かしこまりました」

 ミアは眼をふわふわとした毛糸みたいに補足して、そう応えるとすぐに準備を始めた。


 タセオグラフィーとは「茶葉占い」のことだ。

 紅茶を飲み、カップの底に残った茶葉の数や形によってリーディングを行なう。

 茶柱が立つと縁起が良い、という風習があるが、それと少し似ているかもしれない。

 その起源は古く、紅茶とほぼ同時期に生まれている。

 ヨーロッパや中東で紅茶の貿易が盛んになった時代に、女性たちの間で大流行したという由緒あるものだ。

 酒井は社長になる前まで、占いにはまったく興味もなかったが、取引先の社長に教えてもらってから、見事に陶酔してしまった。将来に対する不安や迷いが募り、何かしらの指針が欲しかったのかもしれない。

 酒井は、ふと思い悩んだときに、占いで気分転換をするようになった。今日みたいな気分の日に打ってつけだった。

 

 ミアは壁棚の奥から、フォーチュンティーカップを取り出した。

 随分と奥まったところにあり、取るのに少し手こずっていた。

 その様子をみて、酒井が問いかける。

「僕以外にタセオグラフィーをするお客さんはいないのかい?」

「そうですね。日本ではそれほど知名度は高くないですし。注文できるところも少ないでしょうね」

「なんだか悪いね」

「いえ、私も結構好きですよ」

 カップを取り出し終えたミアはそう言って、ヒゲを揺らして微笑する。

 『rheology (レオロジー)』で行われるタセオグラフィーでは、専用のティーカップを使用する。

 一般的なティーカップとは異なり、カップの内側にさまざまなシンボルマークが描かれていて、それをもとに占いを行なっていくのだ。

 そのマークは楕円や四角、星といったシンプルなデザインながら、どこか幾何学的な美しさがあり神秘的な雰囲気を漂わせていた。単なる図形ではなく、象徴的で力強い印象を与えられる。

 まるで高貴な遊びをしているような、心地よい気分にしてくれるのだ。

 

 それからミアは、ティーカップに注ぐ紅茶の準備を始めた。

 紅茶占いを行うときには、特に紅茶の種類や銘柄の指定はない。重要なのは茶葉だ。細かくカットされているブロークンタイプがいい。その方がカップの底を巡りやすくなるからだ。

 ミアは紅茶を充分に蒸らした後、カップに入る茶殻があまり多く出過ぎないよう注意しながら、茶こしを使わずにカップに紅茶を注ぐ。

 そして湯気が立ち込めるフォーチュンティーカップを、酒井の前に置いた。

「お待たせいたしました」

 酒井がティーカップを覗くと、琥珀色の液体の底に黒ずんだ茶葉が沈んでいた。

「今回はニルギリにしてみました」

「香りが強いんだね」

 酒井がゆっくりと湯気を吸いこむと、青々としたフレッシュな香りがした。紅茶の優雅な雰囲気とはまた違う、どこか野山の風景を彷彿させる生命力に満ちた香りだった。

 酒井はじっくりと香りを堪能すると、占いたいことを頭に思い浮かべながら、ニルギリを味わった。

 渋みやクセがなく、すっきりとしていて飲みやすい。口の中に広がる味わいは非常に滑らかでありながら、芳醇さも感じられる。爽やかなのに、飲んだ後の口の中に残る深い余韻があった。

「とても美味しいよ」

「ありがとうございます」

 頭の中がすっきりと澄み渡り、曇っていた思考がすっきりと整理されたように感じた。


 酒井は、紅茶が全身に染み渡るような心地よさを感じながら、ぽつりと呟いた。

「多くの社長は、なぜ占いを好むのだろうね?」

 社長という立場に就いてから数え切れないほどの経営者たちと出会ってきた。その中で、妙に多くの人が占いを趣味としていることに気づいていた。

 それは偶然なのか、それとも何か深い理由があるのか。

 ミアは少し考えるように視線を落とし、静かに答えた。

「……努力をし尽くしているからでしょうか」

「努力を?」

 その答えは酒井にとって意外だった。

 思わず言葉を反芻し、ミアの意図を探るように問い返した。

 そしてミアは少し首を傾げてから、話を続ける。

「会社の未来は、どれだけ頑張ってもすぐに形として表れるものではありません。そして、努力だけではどうにもならないことが多いです。答えのない答え合わせを毎日繰り返すのは、不安や恐怖との戦いそのものなんです」

 ミアの声は穏やかだが、その言葉にはどこか重みがあった。

 もしかしたらミアの言葉も多くのお客さんと接している中で、観察の結果として生まれたものなのかもしれない。

「……そうだね」

 酒井は紅茶の入ったフォーチューンティーカップを見つめながら、静かに同意した。

 経営の荒波の中で幾度となく不安に襲われてきた。努力だけではどうにもならない局面に立たされたとき、人は何かにすがりたくなるものだ。

「でも人の上に立つトップがそんなものに頼っていていいのかな?」

 酒井は自分を卑下するように、弱々しく訊ねた。

「もちろん頼りきった依存ではいけませんが、努力を尽くした上での一つの参考としてならば、有意義なものではないでしょうか。『人事を尽くして天命を待つ』という言葉のように」

 ミアの言葉に酒井は一瞬、目を見開き、やがてふっと笑みを漏らした。

「ふふっ、そうだね。ありがとう」

 それから酒井は、ミアの言葉を噛み締めながら、のんびりとティータイムを楽しんだ。濃厚な余韻とともに、心の中に落ち着きが広がっていくのを感じた。

 占いのための、茶葉を飲み込まないよう注意しなければならない。

 酒井はひと口分だけカップの底に紅茶を残して、ティータイムを終えた。

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