20杯目 rheology《レオロジー》 ②
莉央は少し緊張した面持ちで、ティーカップを手に取った。こんなときにミアはどんな紅茶を提供するのか、とても興味深かった。
莉央は探るように紅茶をじっと眺める。
漂ってくる香りはフローラルで花のような甘さと、草原のような青々しさを感じさせる。
ブレンドのような奥深さがあるが、『rheology』のオリジナルではない。
口に含ませると、渋みが少なくまろやかな甘みがある。軽やかで飲みやすい。爽やかな味わいは、馴染みがある気もするが、初めての感覚もある。
飲みやすさはアッサムやセイロンのようだが、味わいはダージリンのようだ。
こんな紅茶、うちにあっただろうか?
馴染みのあるような味わいながら、同時に初めての感覚がする、不思議な紅茶だった。莉央は思わず訝しげに眉をひそめる。
「これは……」
隣で雄司が口を開いた。その言葉に莉央は思わず耳を傾けた。
「和紅茶、ですね」
「はい、その通りです」
ミアは口角を上げて微笑むと、こくりと頷き、雄司の言葉を肯定した。
すると莉央が首を傾げて質問する。
「わこうちゃ? 日本産ってこと?」
「はい。あまり多くは出回っていませんが、日本でも紅茶は作られています」
「久しぶりに飲みましたが、日本人の好みを意識しているあって、飲みやすいですね」
雄司が感心しながら、もう一度ティーカップを口に当てて、紅茶を啜る。
「緑茶に近い、とまで言われていますからね」
ミアの言葉に、莉央はようやく腑に落ちた。
飲んだ時に感じた、初めて飲んだはずなのに懐かしいという感覚。あれは緑茶に似た風味によるものだったのだろう。それならば飲み慣れていて当然だ。
「最近は和紅茶ブームなんていうのもあって、知られるようになってきましたね。わたしの頃はお店に常備していませんでした」
雄司がティーカップを指先でなぞりながら、静かに言葉を継ぐ。それからミアを見つめ直して、そっと問いかける。
「どうしてこれがおすすめなんですか?」
するとミアは尻尾を体に巻き付けるようにして、スッと背筋を伸ばす。
「お客さまは紅茶にお詳しい。なのであまり飲み慣れていないもので、楽しんでいただこうと思いました」
一呼吸置いて、ミアは前足に力を込めてから「それに」と続ける。
「この和紅茶の存在を私自身に重ね合わせました」
「ほう?」
雄司は意外な言葉に小さく唸り、耳を傾ける。
ミアは俯きがちになりながらも、真剣な表情を見せる。
「和紅茶は、まだ未熟で発展途上の存在です。まだ多くの人に知られていません。だからこそ飲んでくれる人には特別な体験を提供できる。それにもっと美味しくなる可能性を秘めています」
「もっと美味しく?」
「はい。和紅茶の歴史はまだ浅いですが、品質は毎年上がっていて、個性的なものがたくさん誕生しています。今年は今年の味わいがありますが、来年にはまた違った個性が出てくる」
雄司はその言葉に感心しながら頷いた。
「つまり、和紅茶は毎年進化していくってことですね。それは楽しみですね」
ミアは優しく微笑み「ええ、その通りです。だからぜひまた来年も飲みに来てください」
ミアの言葉に、雄司目を見開きハッとしたような仕草をする。しかしすぐに表情を取り繕い、穏やかな笑顔で返す。
「もちろん、また来ますよ。来年の和紅茶を楽しみにしています」
「ありがとうございます」
莉央はそんな二人のやり取りをそっと見守りながら、ティーカップを再び手に取り、和紅茶の味わいを静かに楽しんでいた。
陽が西に傾き、橙色の光が窓から差し込み始めていた。
それは雄司が病院に戻らなければならない時間が近づいていることを意味していた。
ふと雄司は空になったティーカップを見つめながら、おもむろに呟く。
「君に「『rheology』の意味を教えたことはありましたか?」
「いえ、聞いたことがありません」
ミアは耳をピクリと動かして応える。
雄司は「そうですか」と言うと、一瞬目を伏せ微笑んでから、ミアの方を見つめて話し始めた。
「『rheology』。この名前には流動学という意味があります。若かった頃の私はそういう覚えたての言葉を使いたかったんです」
ミアは興味深そうに耳を傾け、雄司の言葉を待っていた。
「語源はギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉で『万物は流転する』だと言われています。すべてのものが常に変化しているということですね。彼は『同じ川に二度と足を浸すことはできない』と言っています。川の水は絶えず流れ、新しい水が絶え間なくやってくる。私たちの生活や世界も、常に変化し続けるのです。過去の出来事も、現在の感情も、未来の希望も、すべては流れの中にあり、決して同じ形で留まることはありません」
ミアは深く頷きながら、雄司の話を聞いていた。
その流暢な話し口に合わせて、雄司の瞳はどこか若々しい輝きを増しているように見えた。
「わたしはそれを茶道の一期一会と重ねたんです。このお店に来る人々の人生も、本のページのように目まぐるしく変わり続けている。そんなときにゆっくりと休めるような空間を提供したい。それが少しでも良い方向に向くように手助けできればいい、と」
雄司はそっとお店を労るように、カウンターの机を撫でる。その仕草には深い愛情と敬意が込められていた。
「そんな思いで名付けました」
雄司の言葉には、ミアへの絶対的な信頼と温かな想いが込められていた。
「君にはすべてのことを教えてきた。このお店に込めた想いと同じように、ただ紅茶を出すだけでなく、お客様一人ひとりとの出会いを大切にしていけると信じているよ」
ミアはその言葉を真剣に受け止め、真剣な目で頷く。
「わかりました。ずっとこの店を守っていきます」
感慨深げにそう返事をすると、雄司の目には少し涙が浮かんでいた。
雄司は椅子から車椅子にゆっくりと移動をすると、最後にもう一度、店内を見渡した。
ここで過ごしたどの瞬間も、どのお客様との思い出も、雄司にとってはかけがえのない宝物だった。
やがて莉央が店の扉が開き、雄司は車椅子をゆっくりと押してもらいながら外に出た。
夕暮れの柔らかな光が雄司の背中を優しく照らした。
「ありがとうございました」
ミアはその光景を目に焼き付けながら、見送った。




